イギリスにも存在する「私人逮捕系Youtuber」と「国家権力挑発系Youtuber」:正義か、金儲けか

はじめに

近年、YouTubeというプラットフォームは個人に強大な影響力をもたらす存在となった。情報発信、エンターテイメント、教育など、さまざまなジャンルの動画が投稿される中で、特に注目を集めているのが「私人逮捕系Youtuber」や「国家権力に喧嘩を売るYoutuber」といった、非常に過激で挑発的な内容を売りにしている存在である。

こうしたYoutuberは日本だけの現象ではない。イギリスにも同様の行動を取る者たちが存在しており、彼らの行動は社会においてさまざまな波紋を呼んでいる。本記事では、イギリスにおける「私人逮捕系Youtuber」と「国家権力挑発系Youtuber」の実態を分析し、彼らの目的、影響、そして倫理的・法的問題について掘り下げていく。

1. イギリスの「私人逮捕」文化とYouTube

イギリスでは、「市民逮捕(Citizen’s Arrest)」という制度が法律上認められている。市民が他人を逮捕することは、一定の条件下では合法とされており、例えば「重大犯罪を目撃した場合」や「逃走を防ぐために必要な場合」などに限定されている。

この法律を根拠として、ある種のYoutuberたちが「社会正義の執行者」を自称し、犯罪行為をしていると見なした人々を追跡、詰問、時には物理的に拘束し、その一部始終を動画に収めて投稿するのが「私人逮捕系Youtuber」である。特に、児童性愛者や麻薬の売人など、「社会的に糾弾されやすい対象」を狙う傾向がある。

彼らの動画はセンセーショナルな内容であり、視聴回数は急上昇する。タイトルには「ペドフィリア逮捕の瞬間!」、「ドラッグディーラーを追い詰めた!」など刺激的な文言が並び、視聴者の関心を集めることに成功している。

2. 動機は「正義」か、それとも「金儲け」か?

表向きには「社会の浄化」「子供たちを守る」「警察の怠慢に対する市民の声」などを理由に掲げる彼らだが、その動機が純粋な正義感によるものとは言い切れない。

YouTubeの収益化制度は、再生数・広告クリック・チャンネル登録者数によって金銭が得られるシステムである。つまり、過激で話題性のある動画を投稿すればするほど、広告収入という形で金が入る構造になっている。実際、彼らの多くは動画の冒頭で広告を流し、PatreonやBuyMeACoffeeなどの外部支援サイトへのリンクも設置している。

つまり、こうしたYoutuberの実態は「正義の名を借りたビジネス」であり、「義憤」よりも「収益」が真の動機であると見なすのが妥当である。

3. 国家権力に挑むYoutuberたち

私人逮捕系Youtuberよりもさらに過激な存在として、「国家権力に挑発的態度を取るYoutuber」たちが存在する。彼らは警察官に対し挑発行為を繰り返し、撮影し、その反応を動画にして投稿することで注目を集めている。

たとえば、ロンドン市内で警察官にカメラを向けて「お前たちは人権を侵害している」と詰め寄ったり、検問中の警官に向かって大声で抗議し続けたり、果ては警察署前で「お前たちはファシストだ」と演説する者もいる。

こうした動画の共通点は、「正義を主張する被害者」と「横暴な権力者」という構図を視聴者に印象づけることだ。動画のコメント欄には賛同の声も多いが、一方で「ただの構ってちゃん」「税金泥棒を挑発して何が楽しいのか」など、批判的な意見も少なくない。

4. 過激化のスパイラル

初期の段階では、こうした動画も比較的穏健な内容だった。だが、視聴者の関心を維持し続けるためには、内容をエスカレートさせる必要がある。数年前に比べて、現在の動画は明らかに過激になっている。

たとえば、「警察官の私生活を暴露する」「警察車両に無断で接近・撮影」「捜査中の現場に無理やり割り込む」など、明確に違法性が問われる行動も増えてきている。再生数と収益のために、法律ギリギリ、あるいは完全に逸脱した行為すら辞さない姿勢が見て取れる。

これはいわゆる「過激化のスパイラル」であり、かつては社会問題への警鐘という意義があったかもしれない行動が、現在では単なる炎上商法と化している。

5. 法律と倫理の狭間で

イギリスの法律では、市民による逮捕や撮影の自由は一定程度保障されている。しかし、公共の秩序を乱す行為や、プライバシーの侵害、名誉毀損などに関しては法的リスクが伴う。

実際、過去には私人逮捕系Youtuberが無実の人物を「性犯罪者」として動画で晒し、名誉毀損で訴えられたケースもある。警察への挑発行為についても、「業務妨害」や「公共秩序違反」として処罰の対象となる可能性がある。

また、倫理的観点からも問題視される点は多い。個人を晒し者にすることで得られる一時的な快感や興奮、それに伴う視聴者からの称賛や収益は、社会にとって本当に価値のあるものなのだろうか。

6. 視聴者にも責任がある

重要なのは、こうしたYoutuberが活動を続けられる背景には「視聴者の存在」があるという点だ。センセーショナルな動画をクリックし、拡散し、コメントで支持することが、彼らの行動をエスカレートさせる要因となっている。

「見たいものしか見ない」「スリルを楽しむ」といった娯楽的態度は、やがて社会に深刻な歪みをもたらす可能性がある。エンタメと現実、報道と演出、正義と私刑の境界線が曖昧になればなるほど、その歪みは取り返しのつかないものになる。

7. 今後の社会のあり方とは

このような状況を前にして、私たちはどうすれば良いのか。

第一に、法整備の見直しが求められる。私人による逮捕や撮影に関しては、一定の基準と制限が必要だ。特に未成年者や無関係な通行人が巻き込まれる事態を避けるためにも、ガイドラインの策定が急務である。

第二に、教育的アプローチも重要だ。メディア・リテラシーの向上を図り、視聴者が「何を見るべきか」「何を支持すべきか」を主体的に判断できるようにすることが必要である。

最後に、YouTubeなどプラットフォーム側にも責任がある。収益化の条件に倫理的なガイドラインを組み込むことで、過激な行動による金儲けを抑止する制度設計が求められる。

結論

イギリスにも存在する「私人逮捕系Youtuber」や「国家権力に歯向かうYoutuber」は、現代社会におけるメディアと正義、金銭欲と倫理の複雑な関係性を映し出している。

その行動が「正義」の仮面を被った「収益目的のショー」である限り、私たちは冷静な目でその本質を見極める必要がある。エンターテイメントと社会的責任、そのバランスをどこに置くのか。それは動画を「作る側」だけでなく「見る側」にも問われている重大な問題なのである。

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