アーティストの魂は誰のものか

エルトン・ジョンの警鐘と、AI時代における創造の権利 2023年、音楽界のレジェンドであるエルトン・ジョンが、「AI(人工知能)はアーティストの創造性と魂を脅かす存在だ」と語った。その発言は一部で物議を醸したが、同時に世界中の多くのアーティストや業界関係者の共感を呼んだ。急速に進化する生成AI技術は、音楽・映像・文学などあらゆる創作領域で“代替手段”として台頭してきているが、その陰でアーティストの権利、創作の意義、そして人間性そのものが見過ごされかけているのではないか。 AIによる創作が人間のアートを「模倣」するだけでなく、「オリジナル作品」として流通するようになるとき、アーティストは何を失い、社会は何を得るのか。本稿では、エルトン・ジョンの発言を糸口に、英国を中心とするアーティストたちの反応と懸念を掘り下げ、創作の未来とその所有権について考察する。 エルトン・ジョンの警鐘:創作は「魂の叫び」である 2023年6月、グラストンベリー・フェスティバルでの最後のライブを終えたエルトン・ジョンは、あるインタビューでこう語った。 「AIが作る音楽に“魂”はあるのか? それは創作ではない。機械的な模倣だ。音楽とは人間の経験と感情の結晶だ。そこには苦しみも歓喜もある。それをアルゴリズムで置き換えるなんて、文化の自殺だ。」 この言葉は、単なる懐古主義ではない。彼自身、キャリアの中でシンセサイザーやデジタル音源などの技術革新を積極的に取り入れてきたアーティストである。そんな彼がAIに対して「文化の死」を語るのは、技術の問題というより、倫理と美意識の問題であることを示唆している。 模倣から創造へ:AIはどこまで「オリジナル」か AIは現在、数百万の既存楽曲を学習し、そのスタイルを模倣する形で新しい「曲」を生成できる。音声合成技術を使えば、故人であるアーティストの「新曲」が生成され、まるで本人が歌っているかのように聴こえる作品がつくられる。例えば、YouTubeでは「AIビートルズ」や「AIエイミー・ワインハウス」などの作品が多数アップロードされ、何百万回も再生されている。 問題はそれが「誰のものか」ということだ。学習された楽曲のスタイルやボーカルの特徴は、間違いなく特定アーティストの知的財産である。だが現在の多くの法制度では、こうした“スタイルの模倣”に対する明確な保護は存在しない。著作権は主に「具体的な表現」に関するものであり、「作風」や「声の質感」などのスタイル的要素まではカバーされない。 これが、エルトン・ジョンやレディオヘッドのトム・ヨーク、アデルといったアーティストたちがAIに対し不安を感じる大きな理由だ。 アーティストの連帯と法的対応:イギリスにおける動き イギリスでは、2023年から2024年にかけて音楽業界団体やアーティストによるAI規制への声が高まっている。英国音楽著作権協会(PRS for Music)や音楽産業団体UK Musicは、政府に対しAIに関する著作権保護の拡充を訴える文書を提出。特に「ディープフェイク音声」の法的取り締まり、ならびにAIによる音楽生成の訓練に使用されるデータの出所の透明化を求めている。 2024年末には、イギリス議会のデジタル・文化・メディア・スポーツ委員会(DCMS)が「AIとクリエイティブ産業に関する白書」を発表。そこでは以下のような提言がなされている。 こうした動きは、日本やアメリカ、EU諸国でも並行して進んでいるが、イギリスでは特に「文化保護」の観点が強く打ち出されている点が特徴的である。 AI作品の“独創性”とは何か? AIによって生成された音楽やアートに対し、「これはAIが生んだ新しい芸術だ」と称賛する声もある。確かに、時としてAIは人間が思いつかない構成や音の連なりを生み出すこともある。しかし、そうした作品の「独創性」は、アルゴリズムの外側にある膨大な人間の創作物に依存している。AIが何もない状態からインスピレーションを受けて創造するわけではない。すべては“誰かの作品”に根ざしている。 ここで問われるべきは、「創造性とは何か」「誰が創造者か」という根源的な問いである。音楽も小説も絵画も、それを生んだ人間の文脈や経験が作品に宿ってこそ意味がある。AIがアウトプットする「新しい音楽」が、どれほど巧妙に構成されていても、それが“誰かの人生”を映し出すものでなければ、果たして本物のアートと言えるのだろうか。 市場の構造変化:AIに取って代わられるアーティストたち AIによる創作はすでに市場構造にも影響を及ぼし始めている。特に広告・映像業界では、AIが生成するBGMやボイスが急速に導入され、人間の作曲家やナレーターの仕事が減少している。 たとえば、企業のプロモーションビデオやYouTube広告で使われる音楽は、もはやフリー素材やテンプレート音源ではなく、AIが数秒で生成した“目的特化型”の音楽になりつつある。しかもそれは著作権の問題を回避しやすく、コストもかからない。こうした状況は、フリーランスのクリエイターや若手アーティストにとって致命的な競争圧力を生む。 これは「人件費削減」の名のもとにアーティストが排除される構図であり、文化の担い手を失わせるリスクを孕んでいる。機械が“便利”であるがゆえに、人間の営みが見捨てられる時代が、静かに到来している。 人間の創作を守るために:必要なのは倫理と制度の両輪 AIの進化を止めることはできない。むしろそれを前提に、私たちは「人間の創作とは何か」を改めて定義し直さなければならない。そのためには、法的保護と同時に倫理的なガイドラインの策定が不可欠である。 たとえば、 こうした対応を通じて、消費者や次世代に「創作とは人間の営みである」という感覚を再教育する必要がある。便利さや効率だけでは測れない“文化の深度”を、私たちは忘れてはならない。 終わりに:魂を映す創作の未来へ エルトン・ジョンの言葉を改めて思い出したい。「音楽とは魂の叫びだ」。その魂は、機械には持てない。人が人生の痛みと喜びを通じて絞り出した創作には、目に見えない光が宿る。それこそが文化であり、人間性の証だ。 AI時代において創作の意味が再定義される今こそ、アーティストたちの声に耳を傾け、人間の創造性と権利を守るための行動が求められている。その行動は、単なる技術規制ではなく、私たち自身が「何をアートと呼ぶのか」「何に感動するのか」を問い直す行為でもある。 創作とは誰のものか。魂はどこに宿るのか。それを決めるのは、私たち一人ひとりの選択なのだ。

ロンドンの“クジラ”が映し出す、日本社会の環境意識と震災の記憶

クジラが突きつける問い:震災の記憶と環境意識の“すれ違い” 2025年初頭、ロンドン中心部に設置された一体の巨大なクジラのオブジェが、思わぬ形で国際的な注目を集めた。このクジラは、すべて海から回収されたプラスチックごみで作られたアート作品であり、「海洋プラスチック汚染に目を向けてほしい」という明確なメッセージを放っていた。 しかし、その作品内部に含まれていた“ある一つのプラスチックケース”が日本で波紋を広げた。2011年の東日本大震災による津波で流出した可能性が報じられたからだ。「不謹慎だ」「震災を冒涜している」といった声が日本国内で上がり、展示の本来の意図とはかけ離れた感情的な議論が巻き起こった。 だが、本当に問題視すべきは“津波の遺物”が使われたことなのだろうか?むしろ私たちは、環境問題への意識の欠如や、国際社会との感覚のズレ、そして日本社会の中に根強く残る環境に対する“鈍感さ”にこそ、目を向けるべきではないか。 クジラという象徴:海の悲鳴を伝えるアート 全長10メートルを超えるこのクジラのオブジェは、ヨーロッパ各地の海で回収されたプラスチックごみを素材に、環境団体とアーティストが共同制作したものである。なぜ“クジラ”なのか?それは、クジラがプラスチック汚染による被害の象徴的存在だからだ。 誤ってプラスチックを食べて命を落とすクジラやイルカ、ウミガメたち。分解されず、何十年、時に数百年と海に漂うプラスチック。私たちの消費行動が、いかに海洋生物の命を脅かしているかを、このアートは雄弁に語っていた。 日本国内の反応:震災の記憶か、現実の否認か その中に「津波で流された可能性のある日本製プラスチック」があったことで、批判の声が集まった。「震災被害者を冒涜している」「遺族の感情を軽視している」といった意見もあった。 だが、それは本当に“震災の記憶”を守る姿勢なのだろうか。むしろ、その漂流物が十年以上も海に残り、今なお環境に影響を与え続けているという現実こそ、私たちが直視すべき問題ではないか。 なぜ世界と視点がズレるのか?――クジラを巡る食文化と倫理 ここで無視できないのは、日本国内で「クジラ」が依然として“食材”として扱われている現実だ。商業捕鯨の再開後、日本は世界からの厳しい批判にさらされ続けている。それにもかかわらず、多くの日本人がこの事実を問題視せず、文化の名のもとに正当化する姿勢を崩していない。 その結果、クジラという動物に対して日本と世界の間に大きな認識の隔たりが生まれている。ロンドンの“クジラ”が象徴したのは、環境危機だけではない。日本が国際社会の声にどれほど鈍感であり、自国中心の価値観にどっぷりと浸かっているかという構造的な問題でもあるのだ。 日本の「分別神話」と環境対策の限界 日本は「清潔でリサイクルが進んだ国」としてのイメージを持たれがちだが、その実態は異なる。たとえば日本のリサイクル率85%という数字の大半は、実質的には「サーマルリサイクル」=焼却による熱回収であり、欧州ではこれをリサイクルとは認めていない。 さらに、過剰包装、レジ袋の依存、コンビニ文化など、日常生活の中に大量のプラスチック消費を助長する要素が数多く存在している。分別しているから安心、という自己満足の殻を破らなければ、本当の意味での環境改善にはつながらない。 他国の取り組みに学ぶ:意識と制度の変革 ヨーロッパでは、フランスが段階的にプラスチック製品の販売を禁止、ドイツでは高精度の分別とリユース容器の普及、スウェーデンでは“ごみゼロ”政策の徹底と、各国が市民意識と法制度の両面から脱プラスチックを推進している。 こうした動きと比べたとき、日本は「遅れている」という現実を受け止めるべきだ。 クジラの問いかけ:記憶と未来は両立できる 震災の記憶を大切にすることと、未来の環境を守る行動を取ることは、決して矛盾しない。むしろ、災害を経験した国だからこそ、より一層自然環境の脆さに敏感であるべきなのではないか。 私たちにできることは、日々の行動を見直すこと。プラスチック消費を抑える。再利用を習慣化する。政治に関心を持ち、環境政策に声を上げる。そうした一つひとつの選択が、クジラを救い、地球を救う道につながる。 世界とつながるということ 「海はすべての国とつながっている」。ロンドンのクジラは、この真実を静かに、しかし力強く訴えている。震災の記憶に敬意を払いながらも、それを“言い訳”にして国際的な課題から目を背けるのではなく、そこから新たな未来への責任を引き受けること。 いま、私たちに問われているのは、「何を守るのか」ではなく、「どう未来と向き合うのか」である。

ロンドンに来たら必ず訪れた方がいいアートギャラリー

ロンドンは、世界的に有名なアートギャラリーが集まる都市であり、訪れる価値のある美術館が数多く存在します。以下に、ロンドンを訪れた際にぜひ足を運んでいただきたいアートギャラリーを、入場料情報とともにご紹介します。 1. テート・モダン(Tate Modern) テート・モダンは、現代美術を専門とする美術館で、テムズ川南岸に位置しています。もともと発電所だった建物を改装しており、その独特な外観も魅力の一つです。館内では、パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、草間彌生など、20世紀以降の著名なアーティストの作品が展示されています。特に、巨大な「タービンホール」では、大規模なインスタレーションが定期的に行われています。 2. ナショナル・ギャラリー(The National Gallery) トラファルガー広場に面したナショナル・ギャラリーは、13世紀から20世紀初頭までのヨーロッパ絵画を所蔵する美術館です。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ヨハネス・フェルメールなどの名作が展示されており、美術史に触れる絶好の機会を提供しています。 3. ヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum) ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)は、装飾芸術とデザインに特化した世界最大級の博物館です。ファッション、家具、陶器、写真など、多岐にわたるコレクションが魅力です。特に、定期的に開催される特別展は高い評価を受けており、最新のデザインやファッションの動向を知ることができます。 4. サーペンタイン・ギャラリー(Serpentine Galleries) ケンジントン・ガーデンズ内に位置するサーペンタイン・ギャラリーは、現代美術の展示で知られています。毎年夏には、著名な建築家が設計する「サーペンタイン・パビリオン」が期間限定で設置され、建築ファンにも人気のスポットとなっています。 5. ホワイトチャペル・ギャラリー(Whitechapel Gallery) イースト・ロンドンに位置するホワイトチャペル・ギャラリーは、1901年に設立された歴史ある美術館です。ピカソの「ゲルニカ」をイギリスで初めて展示したことでも知られ、現在も国内外の現代アーティストの作品を紹介しています。 6. フォトグラファーズ・ギャラリー(The Photographers’ Gallery) ロンドン中心部に位置するフォトグラファーズ・ギャラリーは、イギリス初の写真専門ギャラリーとして1971年に開館しました。国内外の写真家による多彩な展示が行われており、写真芸術の発展に大きく貢献しています。