
序章:お酒をめぐる「光」と「影」
イギリスではビールやワイン、ウイスキーなどのアルコールは文化の一部として深く根付いています。パブでの一杯は社交の場であり、地域コミュニティの拠点でもあります。しかしその一方で、飲酒は健康を損ない、医療機関に多大な負担をもたらしているのも事実です。
本稿では、アルコールから得られる税収と、アルコールによって生じる医療費のバランスを軸に、なぜ政府が国民に対してお酒の危険性をより強く警告しないのか、そして将来的に規制が強化される可能性について掘り下げていきます。
第1章:アルコール税収の実態
英国の国家財政においてアルコール税はどの程度の位置づけなのでしょうか。
2023/24年度のデータによれば、アルコール関連の酒税収入は約125億ポンドにのぼりました。内訳はビールで約36億ポンド、スピリッツで約41億ポンド、ワインやシードルで約48億ポンドとなっており、バランスよく複数のカテゴリーから収入が得られています。これは全税収の約1.1%に相当し、決して小さくはない数字です。
さらに2025/26年度には約130億ポンドまで伸びると見込まれており、安定的な財源として政府にとって無視できない存在です。酒税はタバコ税と並び「嗜好品税収」として確実に歳入をもたらしているのです。
第2章:医療費として跳ね返るコスト
しかし、飲酒は単なる楽しみや税収源にとどまらず、医療負担という大きな影を落としています。
イングランドでの最新推計によれば、アルコール関連の医療費は年間約49.1億ポンド。これは病院入院、外来診療、救急車の出動、救急外来(A&E)の利用などを合計したものです。別の試算でも約35億ポンドとされており、数値に幅はあるものの、いずれにせよ数十億ポンド単位の費用がNHS(国民保健サービス)にのしかかっています。
内訳をみると、病院入院だけで22億ポンド、救急対応に約10億ポンド、救急車出動に8億ポンド超と、「緊急医療」関連が非常に大きな割合を占めています。慢性疾患だけでなく、急性アルコール中毒や事故による救急搬送など、即応性の高い医療資源が飲酒の影響を大きく受けているのです。
第3章:税収と医療費のバランス
ここで両者を並べて比較してみましょう。
- アルコール税収(2023/24年度):約125億ポンド
- アルコール関連医療費:35〜49億ポンド
割合にすると、医療費は税収の30〜40%程度。つまり、少なくとも「税収が医療費を上回っている」状況にあります。
この事実はきわめて重要です。もし医療費が税収を超えていれば、政府は財政的観点からも飲酒を抑制する動機が強まるでしょう。しかし現時点では「税収のほうが勝っている」ため、少なくとも財政面から即座に規制を強化する必要性は感じにくい構造になっているのです。
第4章:なぜ政府は強く警告しないのか?
「政府や専門家が国民にお酒の危険性をあまり訴えていない」と感じる人は少なくありません。実際には、政府首席医務官が「週14ユニット以内」という飲酒ガイドラインを示し、NHSも「超えると健康リスクが上昇する」と公表しています。また、公共キャンペーンとして「Drink Free Days(休肝日をつくろう)」も行われてきました。
しかし、そのメッセージはタバコの警告ほど強烈ではありません。たとえばタバコはパッケージに大きな警告写真を貼り付ける義務がありますが、アルコールにはそこまでの規制は存在しません。
その背景にはいくつかの要因があります。
- 産業の影響力:飲料業界が資金を提供する団体(例:Drinkaware)と政府が協働しているため、メッセージが「控えめ」になりがちだとの批判があります。
- 文化的要因:パブ文化は英国社会に根強く、飲酒を強く否定することは政治的リスクが高い。
- 経済的要因:税収だけでなく、酒類産業は雇用・観光・輸出にも寄与しているため、厳格な規制は経済全体に影響を及ぼします。
こうした事情が重なり、結果として政府の警告は「存在はするが、力強さに欠ける」という印象を与えているのです。
第5章:もし医療費が税収を超えたら?
ここで仮定を置いてみましょう。もし今後、アルコール関連の医療費が税収を上回るような事態になればどうなるでしょうか。
その場合、政府にとって「アルコールは財政赤字要因」となります。財政的な合理性を重視する英国政府が、何らかの規制に踏み切る可能性は高いと考えられます。具体的には:
- 最低価格制度(MUP:Minimum Unit Pricing)の全国導入(スコットランドではすでに実施)。
- 税率引き上げによる飲酒抑制策。
- 広告規制の強化(タバコ広告のように大幅制限)。
- 健康警告表示の義務化(ラベルに大きく記載するなど)。
現在でもアルコール関連死は年間1万人以上にのぼり、入院件数は100万件を超えています。これがさらに増え、NHSの負担が制御不能になれば、経済的圧力が政治を動かすことになるでしょう。
第6章:社会全体に及ぶコスト
忘れてはならないのは、アルコールがもたらすのは医療費だけではないという点です。犯罪、家庭崩壊、失業、生産性低下などを含めた社会全体の外部コストは年間約274億ポンドと推計されています。これは税収の2倍以上の規模です。
ただし、これらの費用は「政府の直接支出」ではなく、社会全体に分散して現れるため、財政上のインパクトとしては医療費ほど即効性がありません。そのため「社会的被害は大きいのに規制が進まない」現象が起きているのです。
結論:財政バランスが政策を左右する
まとめると、英国におけるアルコール政策の現状は次のように整理できます。
- 税収は年間125億ポンド前後で、医療費(35〜49億ポンド)を上回っている。
- このため、政府は財政的観点から強力な規制に踏み出す動機が弱い。
- 危険性の周知は行われているが、産業・文化・経済要因で「控えめ」になっている。
- もし医療費が税収を超える事態になれば、財政上の必然として強い規制が導入される可能性が高い。
つまり現状では「税収のほうがまだ勝っている」からこそ、アルコールは社会に許容され続けているのです。逆に言えば、税収を上回る医療費負担が顕在化した瞬間、英国の飲酒文化は大きな転換点を迎えるかもしれません。
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