
「我らはアメリカとは違う。あの国のように粗野で強欲で、無神経な国ではない」――イギリス人がそう口にする場面に出くわすのは珍しくない。紅茶文化、女王の国、古い伝統と階級社会を誇り、ヨーロッパに根を下ろした気品を売りにする彼らにとって、「アメリカと一緒にされること」ほど屈辱的なものはないらしい。だが、そのプライドの裏側には皮肉にも、アメリカへの強烈な依存と模倣が透けて見える。言葉を選ばずに言えば、イギリスはアメリカを嫌っているようで、結局はその後ろを息を切らして追いかける二重人格国家なのである。
表向きはアンチ・アメリカ、裏では大好き
イギリスの知識人やジャーナリストはしばしばアメリカを批判する。銃社会の危険さ、ファストフード文化の浅さ、ショービジネスの過剰さ、果ては政治的な無責任さまで、口を開けばアメリカ批判が飛び出す。だが街を歩けばどうだろう。ロンドンのオフィス街ではアイフォンがあふれ、若者はスターバックスのカップを片手にインスタグラムを更新し、夕方にはマクドナルドやKFCに行列をつくる。彼らは声高に「アメリカ文化に毒されるな」と叫ぶ一方で、その毒を甘美に味わっている。
これは単なる文化的消費の話にとどまらない。アメリカに対する憎悪と依存は、政治や社会制度にまで深く入り込んでいる。
アメリカの「後追い政策」
もっとも分かりやすいのは移民政策だろう。アメリカが「移民排除」の方向に舵を切るやいなや、イギリスも同じ方向に動いた。Brexitのスローガンがそうであるように、「我々の国を取り戻せ」という叫びは、アメリカのトランプ現象と見事にシンクロしていた。しかもイギリスは自らが「アメリカよりも理性的で、国際的な協調を大事にする国」であると自負していたにもかかわらず、結局は同じ排外主義の波に飲み込まれたのだ。
この「二番煎じ」は、国際政治の随所で目に付く。中東への軍事介入、対中姿勢、テロ対策法制――どれを見てもアメリカが先に拳を振り上げ、イギリスが「仕方なく」従うという構図が続いてきた。だが皮肉なことに、イギリスは「我々は盲目的に追随しているのではない。我々には独自の判断がある」と強弁するのだ。その独自性なるものが、どう見てもアメリカのコピーにすぎないことは、誰の目にも明らかであるにもかかわらず。
アンチ・アメリカを演じることで保つ自尊心
では、なぜイギリス人はここまで二重人格的な態度をとるのか。ひとつには歴史的な劣等感がある。かつては「太陽の沈まぬ帝国」として世界を支配したイギリスだが、二度の大戦を経てその地位はアメリカに取って代わられた。現在の国際秩序においてイギリスは、アメリカの弟分であり、相棒であり、時に忠犬である。自分たちが「親玉」ではなく「従者」に成り下がったことを、心の奥底では理解しているが、それを認めることはプライドが許さない。だからこそ「アメリカとは違う」「あんな愚劣な国とは一線を画す」という言葉を繰り返し、自尊心をつなぎ止めているのだ。
しかし、日常生活で彼らが選ぶ商品や娯楽がアメリカ製ばかりである現実は、その言葉を滑稽なものにしてしまう。自分たちは「気高い紅茶の国」だと言いながら、実際にはコーラを飲み、ハンバーガーを食べ、スマートフォンをいじる。これほど見事な二重人格も珍しい。
「アメリカ嫌い」の裏にある憧れ
精神分析的に言えば、イギリスのアンチ・アメリカ感情は、憎しみよりもむしろ憧れの裏返しだ。失われた帝国の栄光を、今やアメリカが代わりに手にしている。その現実を直視できないイギリス人は、アメリカに対して「羨望と嫉妬」を抱く。だが、それを素直に認めることはできない。だからこそ「嫌いだ」と叫ぶことで、自分を納得させようとする。
恋愛でたとえれば、イギリスは「本当は好きなのに、素直になれずに悪口を言ってしまう」拗ねた恋人のようなものだ。だが悪口を言いながらも、気づけば相手の後を追い、同じ服を買い、同じ店に通い、同じ口癖を使ってしまう。もはや笑うしかない二重人格的行動である。
マクドナルドとフィッシュ・アンド・チップス
象徴的なのは食文化だ。イギリスといえば伝統料理フィッシュ・アンド・チップスを誇るが、現代のイギリス人が日常的に食べているものは、むしろアメリカ発のファストフードだ。昼休みに同僚とマクドナルドへ、週末のランチはKFC、夜はNetflixを観ながらコーラを飲む。そうした生活習慣は、アメリカ人のライフスタイルとほとんど区別がつかない。
それでも彼らは「アメリカ人はジャンクフードばかりで健康を害している」と批判する。その言葉を吐きながら、口いっぱいにチキンナゲットをほおばっている姿を想像すれば、この二重人格性の滑稽さは一層際立つ。
政治の舞台裏でも
国際舞台でのイギリスの立ち位置も同様だ。アメリカに従属しながらも、常に「自分たちはヨーロッパとアメリカをつなぐ架け橋だ」と誇る。だが実際には、アメリカの政策をヨーロッパに売り込み、ヨーロッパの抵抗をアメリカに伝えるだけの仲介役に過ぎない。その役割に「橋」という美名を与えているのは、自らの存在感を誇示したいからだ。
結局は「アメリカの鏡像」
こうして見ていくと、イギリスの二重人格性は単なる偶然や習慣の問題ではなく、歴史的宿命ともいえる。帝国としての威信を失い、その代わりにアメリカの影に隠れて生きるしかなくなったイギリスは、「アメリカと似ていること」を誇れず、「アメリカと違うこと」も証明できない。その結果、「似ていることを嫌いながら、似ることをやめられない」という自己矛盾を抱え込むのである。
まるで自分の顔を映す鏡に向かって、「こんな顔は嫌だ」と叫んでいるようなものだ。だがその鏡を壊すこともできず、結局は鏡の中の自分を真似てしまう。イギリスにとってアメリカとは、まさにそうした存在なのだ。
終わりに ― 二重人格は続く
イギリス人のアメリカ嫌いとアメリカ依存の矛盾は、今後もしばらく続くだろう。なぜなら、それは単なる文化の流行や政治の一時的現象ではなく、帝国の栄光を失ったイギリスという国の「心の病理」だからである。
彼らはこれからも「アメリカとは違う」と叫びながら、最新のアイフォンをポケットに忍ばせ、マクドナルドでハンバーガーを頬張り、アメリカが打ち出した政策を二拍遅れで追随するだろう。その姿は哀れであると同時に、どこかユーモラスでもある。
結局のところ、イギリスはアメリカの永遠の影であり、二重人格国家としてのアイデンティティを背負い続けるのだ。
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