
先日、インド航空の旅客機が墜落するという痛ましい事故が報じられた。乗員乗客あわせて242人。日本のニュースでは「全員死亡」と伝えられたが、イギリスのニュースでは「奇跡的にイギリス人男性1名が生存」と報じられた。私はイギリスに住む日本人だ。どちらの報道を信じればよいのか、正直、困惑した。
このような報道の食い違いは、私たち在外日本人にとって決して珍しいことではない。インターネットを通じて、母国と居住国、複数のメディアから情報を得る今の時代、情報の“断絶”より“重複”のほうがむしろ問題になりやすい。異なる報道、異なる表現、異なる視点。それらを突き合わせて「何が本当なのか?」と考えなければならないのは、情報があふれる現代ならではのジレンマかもしれない。
日本の報道が誤っていたのか?イギリスの報道が早とちりだったのか?それとも情報が錯綜している最中に、各国メディアがそれぞれ異なるタイミングで速報を出しただけなのか?
こうした事態に直面すると、私たちは「どのメディアが正しいのか」という問いに向き合うことになる。だが同時に、自分が“何を信じたいのか”という内面の問題とも向き合わされる。
母国・日本のメディアを信じたい。けれど今住んでいる国のメディアにも信頼を寄せたい。立場が揺れ動く中で、私たちは単なる“受け手”ではいられない。情報の“選別者”であり、“咀嚼者”でなければならない。
情報が錯綜していること自体は、ある意味で健全なのかもしれない。なぜなら、情報の多様性があることで、私たちは「自分の頭で考える」必要に迫られるからだ。問題なのは、その“考えること”を放棄してしまったとき。報道の一面だけを見て、「これが真実だ」と早合点してしまうと、結果的に誤解や偏見を助長してしまう。
報道の食い違いに戸惑うたび、「なぜこんなにも情報が正確に伝わらないのか」と苛立ちを覚えることもある。だが、情報を正確に“伝える側”にも限界があり、“受け取る側”にも責任がある。メディアの精度やスピード、国家や文化による表現の違いなど、さまざまな要因が複雑に絡み合っている。
だからこそ私たちは、「情報を信じる」という行為に慎重でありたい。そして、複数の視点を受け入れ、矛盾と向き合いながらも、自分なりの真実を見極めようとする姿勢を持ち続けたい。
「情報の時代」に生きるというのは、そういうことなのかもしれない。
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