
序章:なぜ日本人はイギリスに惹かれるのか
イギリスと日本。地理的にも文化的にも離れたこの二国だが、不思議と日本には「イギリス愛好家」が多い。ティータイム、文学、庭園、ロック、紳士の国――イギリスに抱くイメージは多岐にわたるが、それを単なる「憧れ」で終わらせず、生涯をかけてイギリスを愛し続けた日本人がいる。彼らの人生を辿ることで、イギリスという国がもつ普遍的な魅力と、日本人にとってそれがいかなる意味をもったのかを探ってみたい。
第1章:白洲正子――静と動が織りなす英国文化への共鳴
白洲正子(1910〜1998)は、日本の伝統文化をこよなく愛した随筆家でありながら、その人生の転機に「イギリス」という存在が深く関わっていた。若き日の正子はアメリカ留学を経て、ヨーロッパ各地を訪れる。その中でも彼女が特に感銘を受けたのがイギリスだった。
ロンドン郊外のカントリーハウスを訪れた際、彼女はこう語っている。
「あの庭園の静寂と秩序、自然を愛する心と手入れされた美しさの調和に、私は日本の茶庭と同じ精神を感じた。」
白洲はイギリス庭園の思想、すなわち「人工と自然の間に調和を見出す」価値観に、深い共感を覚えた。日本の侘び寂びと英国のガーデニング精神、これらは一見遠いが、彼女にとっては同根の感性だったのだ。
また、彼女の審美眼はイギリスの伝統的なクラフトやアンティークにも通じている。粗野さの中にある洗練、長く使われる道具の美学――これらも日本の民藝と重なる。
つまり白洲正子にとってイギリスとは、「異国のなかに日本を再発見する場」だったのである。
第2章:村上春樹――イギリス音楽と文学に包まれて
世界的作家・村上春樹も、イギリスへの深い愛着を公言している。特に影響を受けたのは、ビートルズをはじめとするブリティッシュ・ロック、そしてイギリス文学だ。
『ノルウェイの森』のタイトルそのものがビートルズの楽曲名であることはよく知られている。彼の作品には、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クリームなど、60〜70年代の英国音楽の影響が色濃く表れている。音楽の旋律が彼の文体にリズムを与え、物語のムードを織り上げているのだ。
また、彼はE.M.フォースターやグレアム・グリーンといったイギリスの作家たちの作品にも強い影響を受けている。静かな絶望感、抑制された感情、そして皮肉な視点――こうした英国文学特有のトーンは、村上の作品にも見て取れる。
村上春樹がイギリスに惹かれた理由は、おそらくそこに「寡黙な叙情性」と「洗練された孤独」があったからだろう。彼の登場人物たちは、都会の喧騒の中で静かに生きる孤独な魂であり、まさに英国紳士の姿とも重なる。
第3章:柳宗悦――民藝運動と英国アーツ・アンド・クラフツの邂逅
日本の民藝運動の旗手、柳宗悦(1889〜1961)もまた、イギリス文化との深いつながりを持っていた。特に彼が敬愛していたのが、19世紀末のイギリスの芸術思想家ウィリアム・モリスである。
モリスは産業革命の大量生産に抗し、職人の手仕事の価値を訴えた。これは柳が唱えた「用の美」、すなわち日用品の中にこそ真の美があるという理念に直結する。
実際、柳は1920年代にイギリスを訪れ、モリスの工房や書斎を見学している。そこで感じたのは、モリスの思想が「宗教的」ともいえる深い倫理性を持っていることだった。美は単なる装飾ではなく、生き方そのものなのだという思想に、柳は感銘を受けた。
また、柳と親交のあったバーナード・リーチ(英国の陶芸家)との交流も特筆すべきだ。リーチは柳の思想に深く共鳴し、日本での陶芸活動に人生を捧げた。リーチと柳の友情は、単なる文化交流を超えた「魂の共鳴」だったと言っても過言ではない。
第4章:村治佳織――クラシックギターと英国音楽の優雅さ
現代の音楽家の中でも、イギリスへの強い愛着を持っているのがクラシックギタリスト・村治佳織だ。彼女はロンドンの王立音楽院に留学し、その音楽性を大きく広げていった。
イギリスは、ジュリアン・ブリームやジョン・ウィリアムズといった世界的ギタリストを輩出してきた「クラシックギターの聖地」と言える。村治はそうした英国音楽の伝統に身を投じ、独特の抑制された情感と優美な音色を習得していった。
彼女の演奏には、イギリス文化のもつ「控えめな情熱」と「知的な美意識」が感じられる。派手さを排した上品なアプローチは、まさに英国的精神の反映と言える。
終章:イギリスは「異国」ではなく「鏡」だった
ここまで見てきたように、イギリスを深く愛した日本人たちは、それぞれの人生と表現の中にイギリスの要素を取り入れながら、自らの美意識を深めていった。彼らにとってイギリスとは、単なる「外国」ではなかった。
それはある意味、自分自身を見つめ直すための「鏡」だったのではないか。異文化に触れることで、自国の文化の価値を再認識する。異国の美に共鳴することで、自分の内なる感性を解き放つ――そんなプロセスが、彼らの「イギリス愛」の背景にあったのだ。
イギリスと日本。このふたつの国の間に流れる静かな共振に、私たちもまた耳を澄ませてみてはどうだろうか。
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