
はじめに
イギリスでは近年、移民や庇護申請者(asylum seekers)をめぐる議論が社会の中心に浮上している。特にドーバー海峡を渡って小型ボートで到着する人々の映像は、国内外のメディアで大きく取り上げられ、国民感情を揺さぶってきた。そうした中でしばしば聞かれる主張のひとつに、「不法移民がやって来て生活保護を受けると、既に給付を受けているイギリス国民の手当が減る」というものがある。
この主張は一見もっともらしく響く。しかし、制度を実際に検証してみると、それは事実とは異なり、むしろ誤解や誇張、政治的レトリックの産物であることが明らかになる。本稿では、イギリスの生活保護制度の仕組み、不法移民や庇護申請者がどのような扱いを受けるのか、そしてなぜ「移民のせいで給付が減る」という物語が広まったのかを、制度的・社会的観点から掘り下げていく。
1. イギリスの生活保護制度の基本構造
イギリスにおける「生活保護」に相当するのが ユニバーサルクレジット(Universal Credit, UC) である。これは2013年以降導入され、失業者や低所得者向けの複数の給付制度を一本化したものである。
- 給付対象は「イギリス国内に合法的に居住し、一定の所得条件を満たす人」。
- 受給額は世帯単位で計算され、子どもや障害の有無、家賃の負担額などによって増減する。
- 財源は中央政府の一般財源から賄われ、個別の「原資プール」があるわけではない。
つまり、誰かが新たに受給を開始したからといって、他の受給者の給付額が減る仕組みにはなっていない。支給水準は法律と政令によって定められており、個々の受給者同士で「取り合う」性質のものではない。
2. 不法移民・庇護申請者はユニバーサルクレジットを受けられるのか?
結論から言えば、不法移民はユニバーサルクレジットを受給できない。庇護申請者も原則として受給できない。彼らに提供されるのは「Asylum Support」という別枠の最低限支援である。
- 金銭給付:週約£49(1日あたり£7程度)。食費・日用品すべてをここから賄う必要がある。
- 住居:政府が契約した民間住宅やホテルに一時的に収容される場合があるが、場所は選べず、居住環境は劣悪なことが多い。
- 就労:庇護申請中は原則として就労禁止。特定の不足職種のみ例外的に許可されることがある。
一方、ユニバーサルクレジットの基準額は単身25歳以上で月約£400。加えて住宅費や子ども加算がつくため、支給総額は庇護申請者のAsylum Supportよりはるかに大きい。つまり、移民が到着したからといって「同じ財源から生活保護をもらっている」という構図ではないのだ。
3. 「家や車が与えられる」という誤解
巷でよく聞かれるのが「移民が来れば家や車が与えられる」という話だ。だが実際には以下の通りである。
- 家:あくまで一時的な住居であり、ホテルの一室や共同住宅が多い。選択権はなく、プライバシーも限定される。
- 食事:ホテル滞在時に簡素な食事が提供される場合を除き、基本は給付金で自炊。
- 車:支給される制度は存在しない。週£49の給付では車の購入・維持など不可能である。
このような誤解は、メディアがホテル滞在の映像を切り取って「無料で宿泊」と報じたり、政治的発言で「税金で移民に豪華な支援が与えられている」と強調されたりすることで広まっている。
4. なぜ「移民のせいで給付が減る」という物語が生まれるのか
背景にはいくつかの要因がある。
- 財政不安と不満の転嫁
経済停滞や物価高騰のなかで国民は生活に不安を抱えている。その矛先が「外から来る人々」に向かいやすい。 - メディア報道の影響
「移民にホテルが無料提供」という見出しは強い感情を呼び起こす。一方、実際の支給額の少なさや生活の厳しさは目立ちにくい。 - 政治的レトリック
一部の政治家は「移民の流入が福祉制度を圧迫している」と訴えることで支持を集めようとする。しかし制度的には、移民が来たからといって既存の受給者の給付額が直接減ることはない。 - 人間心理
「限られたパイを取り合っている」というゼロサム思考が働く。だが実際の給付は国全体の予算から支出され、個々のケースが他人の給付を削ることはない。
5. 現実の課題は「制度の遅延」と「宿泊コスト」
誤解を解いた上で、実際の問題点も押さえておく必要がある。現在、庇護申請の審査が大幅に遅れ、数万人が長期的にホテルに滞在している。そのコストが納税者負担として数十億ポンド規模に膨れ上がっているのは事実だ。
しかしこれは「既存受給者の給付額が削られる」問題ではなく、政府の財政運営と審査体制の効率化の問題である。移民がUCを奪っているわけではなく、むしろ申請遅延が余計な支出を生んでいるのだ。
6. 「移民のせいで給付が減る」は神話である
以上を踏まえると、「不法移民が生活保護を受けるせいでイギリス国民の給付が減る」というのは事実ではない。
- 不法移民や庇護申請者はUCを受給できない。
- 彼らが受ける支援は「Asylum Support」という全く別枠で、内容はごく最低限。
- 既存のUC受給者の給付額は、法律で定められた基準に基づいて支給され、他人の受給によって直接減額されることはない。
おわりに
移民問題は感情的な議論を呼びやすい。だが事実に基づかない神話や誇張は、社会の分断を深めるだけである。実際に存在する課題は、庇護申請の遅延や宿泊コスト、地域社会への受け入れ体制の不足といった制度的問題であり、「移民が国民の生活保護を奪っている」という構図ではない。
したがって、「不法移民が来たせいで給付が減る」という言説は、イギリス人自身の不安や怒りを反映したでっち上げの物語と捉えるべきだろう。必要なのは移民をスケープゴートにすることではなく、福祉制度の透明性を高め、事実に即した議論を行うことである。
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