【辛口コラム】「テレビに出たい病」と「空気読めない症候群」──イギリス社会に蔓延する自己演出の歪み

最近ふと感じるのだが、イギリスという国には「テレビに出たい病」とでも名付けたくなるような、妙な国民性が根付いている気がしてならない。
事故現場、抗議デモ、通行人インタビュー、ちょっとした地方ニュースまで、ありとあらゆる場面で「ここぞ」とばかりに顔を突っ込んでくる人たち。カメラを向けられれば目を輝かせ、内容の良し悪し以前に「とにかく自分を映してくれ」という熱意だけは人一倍強い。

彼らの多くに共通しているのは、「場の空気を読む」という意識がまるでないことだ。

これは単に無神経というより、「公共の場における自分の立ち位置」への理解が欠如しているのではないかとすら思う。言い換えれば、テレビカメラの前では突然、自分が“主役”になれると錯覚してしまうのだ。そして、主役になったつもりの人間は、誰も脇役の気配りなどしない。

つい先日、その極端な例を目にして、しばらく言葉を失った。

数年前、バイクで走行中に逆走車と衝突して命を落とした19歳の青年がいた。その母親が、BBCのニュース番組に出演し、息子の死を語っていた。…いや、語っている「はず」だったのだが、登場した瞬間、すべての関心が彼女の「見た目」に奪われた。

全身に行き渡った濃すぎる日焼け、金のアクセサリー、やたらと白い歯を見せながらの笑顔。黒い喪服もなければ、控えめな雰囲気も皆無。まるで地中海のビーチリゾートから帰ってきた直後か、日焼けサロンに毎日通っている最中のような装いだった。

これが、自分の息子を不慮の事故で失った母親の姿なのか?
そう疑いたくなるようなギャップに、視聴者は困惑するしかなかった。彼女が何を語っていたかは、正直ほとんど記憶に残っていない。ただその「不適切なほどに明るい外見」だけが、画面越しに焼き付いてしまった。

誤解してほしくないのは、ここで問題にしているのは彼女の「悲しみ方」ではない。悲しみは人それぞれの形があるし、表面上だけで測れるものではない。それは分かっている。だが、テレビという「公共のメディア」に出演し、「遺族」として言葉を発する以上、その場にふさわしい振る舞いや見た目が求められるのは当然だ。

人は、発言内容だけでなく、話し方、態度、服装、雰囲気――すべてを通してその人の本気度や誠実さを受け取る。画面越しの視聴者に対して「私は真剣です」「息子の死は他人事ではありません」と伝えるには、言葉以上に、佇まいや空気の持ち方が問われるのだ。

だが、イギリスの“出たがり”文化の中では、そういった要素が軽視されがちだ。大事なのは「何を伝えるか」ではなく、「どう目立つか」。問題提起をすることより、テレビに映ること自体が目的化してしまっているのだ。

この傾向は、いわばテレビ版の「自己演出型SNS」だ。インスタグラムやTikTokで自撮りやリアクション動画をアップするように、テレビ出演も「自分アピールの延長線」として扱われている。それがニュース番組だろうと、悲劇の当事者としての出演であろうと、関係ない。とにかく「自分をどう見せるか」だけに全神経が集中している。

しかしそれは、視聴者の立場からすれば、非常に不快で空虚なものに映る。

悲しみや怒りを訴えるなら、その場にふさわしい佇まいで出てきてほしい。正義を主張するなら、真摯さが伝わる表情や語り口で臨んでほしい。ゴシップ番組でもなければ、コスプレ大会でもないのだから。

ここで改めて問いたい。
テレビに出ることは、あなたの自己満足の舞台ではない。
画面の向こうには、あなたの言葉に耳を傾ける人々がいる。その人々が、何を感じるか、どう受け止めるか――その責任を、映る側はもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

「テレビに出たい病」と「空気読めない症候群」は、この国の自己演出社会のひずみそのものだ。映ることに夢中になるあまり、伝えるべき本質がどんどん抜け落ちていく。

そして残るのは、虚ろな映像と、冷めきった視聴者のため息だけである。

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