― イギリス・スーパーで起きた悲劇と、なぜ殺人罪に問われなかったのか ―
1.事件の概要 ― ごく日常の中で起きた突然の悲劇
この事件は、イングランド南東部ロンドン郊外のベッケナム(Beckenham)にある Sainsbury’s(セインズベリーズ)で起きた。
被害者は Andrew Clark(アンドリュー・クラーク、43歳)。
2人の子どもを持つ父親で、家族思いのごく普通の市民だった。
事件当日、クラーク氏は家族とサッカー観戦を楽しんだ後、夕食の買い出しのためスーパーを訪れていた。
店内のレジに並んでいたところ、後ろから来た男が列に割り込もうとした。
クラーク氏はそれを見て、穏やかに注意したとされている。
しかし、この日常的なやり取りが、取り返しのつかない結末につながった。
2.暴力への急転 ― たった一撃が命を奪った
注意された男は一度その場を離れ、店の外へ出た。
ところが数分後、再び店内に戻り、クラーク氏に近づく。
そして突然、顔面を平手で強く殴打した。
クラーク氏はその衝撃で後方へ倒れ、床に頭を強く打ちつけた。
殴打そのものではなく、この転倒による頭部外傷が致命傷となった。
救急搬送されたものの、意識は戻らず、数日後に死亡が確認された。
加害者はその場から車で逃走したが、後に警察に逮捕された。
3.社会に広がった怒り ―「あまりに理不尽な死」
この事件はイギリス社会に大きな衝撃を与えた。
- 列への割り込みを注意しただけ
- 武器を持たず、反撃もしていない
- 家族と平穏な一日を過ごした直後
こうした点から、
「誰にでも起こり得る状況だ」
「正しい行動を取った人が命を落とす社会でいいのか」
という怒りと恐怖の声が広がった。
4.最大の疑問 ― なぜ「殺人罪」や「殺人未遂」にならないのか
多くの人が最も疑問に感じたのが、ここである。
「故意に殴ったのなら、殺人未遂、あるいは殺人ではないのか?」
直感的には、そう思うのは当然だ。
しかし、イギリス刑法では**殺人(murder)や殺人未遂(attempted murder)**が成立するためには、非常に重要な要件がある。
5.イギリス刑法の核心 ―「殺意(intent)」の壁
イギリスで殺人・殺人未遂が成立するには、
- 被害者を殺す明確な意図(intent to kill)
が必要とされる。
単に「危険な行為をした」「結果として死んだ」だけでは足りず、
「この行為によって相手を殺そうとしていたか」
が厳格に問われる。
6.裁判所が見たポイント
裁判で重視された事実は以下の通りだった。
- 使用されたのは武器ではなく素手
- 行為は一度きりの平手打ち
- 追撃や継続的暴行はなかった
- 死因は殴打そのものではなく、転倒による頭部打撲
これらを踏まえ、裁判所は次のように判断した。
「強い暴力ではあるが、
この一撃で被害者を殺そうとしたとまでは認定できない」
つまり、
殺意の立証ができなかったため、殺人罪や殺人未遂罪は成立しなかった。
7.それでも「事故」ではない ― 過失致死という判断
一方で、裁判所はこうも認定している。
- 単なる事故ではない
- 正当防衛でもない
- 軽い暴行でもない
人が倒れ、頭を打てば命を落とす危険があることは、誰にでも予見できる。
それを理解したうえで暴力を振るった以上、重大な責任は免れない。
その結果、加害者は
過失致死(manslaughter)
で有罪となった。
8.判決と残された怒り
言い渡された刑は 懲役5年3か月。
イギリスの制度上、実際の服役期間はさらに短くなる可能性がある。
被害者家族は、
- 「命の重さに比べて、あまりに軽すぎる」
- 「子どもたちは父親を永遠に失った」
と強い怒りと悲しみを表明している。
9.この事件が突きつけたもの
この事件は、単なるスーパーでの暴力事件ではない。
- 日常の中の小さな注意が、命を奪う結果になる現実
- 「殺意」がなければ殺人にならないという法制度
- 被害者感情と法的評価の大きな隔たり
それらを社会に突きつけた事件である。
多くの人が感じている
「それでも殺人に近いのではないか」という違和感
こそが、この事件が今も議論を呼び続けている理由だ。










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