なぜイギリス人は国内旅行中に“必要のないもの”を買ってしまうのか?――非日常が生む消費行動の心理学と文化的背景

序章:観光地で起きる“おかしな買い物”

「こんなのどこに置くつもりだったんだ?」
ケンブリッジに住む40代の男性は、週末旅行で訪れたコーンウォールの土産店で、巨大な陶器製の魚の置物を買った自分に苦笑した。

「普段なら絶対に入らないような店にふらっと入り、なぜか財布のひもがゆるむ。帰ってから後悔するのは分かってるのに、つい買ってしまう。」

こうした話は、イギリス国内で旅行をしたことのある人なら一度は経験があるのではないだろうか。スコットランドのハイランド地方でスコットランド柄のタータン帽を買う。湖水地方で手作りのキャンドルやラベンダー石鹸を大量に買い込む。ウェールズの田舎町で木製のスプーン(”love spoon”)を家族全員分。なぜ私たちは旅先で“必要のないモノ”を買いがちなのだろうか。

本稿では、イギリス人の国内旅行におけるこうした一風変わった消費行動の実態を、文化的、心理学的、経済的側面から掘り下げていく。


第1章:数字が語る「非合理な買い物」の実態

イギリスの旅行代理店協会(ABTA)と観光庁(VisitBritain)が共同で行った2024年の調査によれば、イギリス人の**約73%が「旅先で普段なら買わないものを購入した経験がある」と回答。そのうち45%**が「買って帰ってから一度も使っていない」、**18%**が「購入を後悔したことがある」と答えている。

特に多かった“無駄な買い物”のジャンルは以下の通りである:

  • 雑貨・土産(民芸品、装飾品など):62%
  • 食品(珍味、地元特産品):51%
  • 衣類(伝統衣装、スローガン入りTシャツなど):38%
  • 趣味・娯楽グッズ(釣り具、手作り石鹸、手工芸品):27%
  • 美容・健康グッズ(クリーム、入浴剤など):24%

年齢層別では、20代・30代の若年層に比べて、50代以上の層が“高額で使わない買い物”をしがちという傾向が顕著だった。


第2章:なぜ“非日常”の空間が財布をゆるめるのか?

このような買い物行動は、単なる衝動買いとは異なる側面を持っている。それは「旅」という非日常性が人間の認知や行動に変化を与えるからだ。

1. 心理的解放と自己許容感

日常から離れると、人はルーチンや制限から解き放たれる。「今日は特別だから」と自分に言い聞かせて、自制心を緩める傾向がある。

ロンドン大学心理学部のキャスリーン・ボイル博士はこう語る:

「旅行中は『いつもの自分』ではなく『旅先での自分』という別人格を生きる傾向がある。これは“時間的自己分離(temporal self-discontinuity)”と呼ばれる現象で、普段なら避けるような行動や選択を肯定的に受け入れてしまうのです。」

2. 思い出の“物質化”

旅先での買い物には、「この瞬間をモノとして残したい」という心理が働く。写真や記憶と同じように、手に取れる形で旅を持ち帰ろうとするのである。

イングランド中部で行われた消費行動調査では、「思い出に残したい」という理由で必要性を考慮せず購入した人が全体の68%にのぼった。


第3章:地域と商店にとっての“旅人の無駄買い”

1. ローカル経済を支える「ありがたい非合理」

旅人のこうした買い物は、地元の小規模事業者にとっては非常に重要な収入源である。

ノース・ヨークシャーにある陶器店の店主はこう語る:

「地元の人は買わないような奇抜なデザインの花瓶が、旅行客には一番売れる。『思い出』というラベルが付くと、モノは強い。」

このように、“旅の魔法”がかかっている間にだけ成立する消費は、観光地の小売店にとって欠かせない収益源となっている。

2. 季節ごとの“買わせパターン”

さらに興味深いのは、季節ごとに“買われがちな無駄アイテム”が変化することだ。

  • :花柄や自然モチーフの雑貨、ガーデニング用品
  • :レトロTシャツ、地元クラフトビール、アウトドアグッズ
  • :手作りジャム、毛糸製品、陶器
  • :クリスマス雑貨、アロマキャンドル、毛布やスロー

このように「季節+場所」によって、購入されるアイテムが大きく変わることからも、旅行者がいかに“その瞬間”の空気に流されやすいかが分かる。


第4章:イギリス人特有の“無駄買い”文化的背景

こうした行動は、イギリス人の文化的気質とも密接に関わっている。

1. ノスタルジアへの傾倒

イギリス人は郷愁(nostalgia)を好む傾向が強い。古き良きもの、手作り感、アンティーク風なデザインが人気で、旅先で出会った“懐かしさ”に財布が反応する。

たとえば湖水地方では、ヴィクトリア朝風の文具セットが売れ筋になっている。実用性よりも「時代の香り」に惹かれる感情が強い。

2. “Self-deprecating”ユーモアと買い物

イギリス人は自分をからかう文化(self-deprecation)があり、「こんなの買っちゃったよ(笑)」と友人に語ることで、買い物が一種のネタになる。このように、無駄な買い物すら“コミュニケーションの道具”として機能する側面がある。


第5章:デジタル時代における“旅先の消費”の変化

近年では、SNSの影響で“映える”お土産や商品が特に売れやすくなっている。

たとえば、インスタグラムで話題になった「ハイランド牛のぬいぐるみ」は、スコットランドの観光地で年間数万個が売れるヒット商品に。オンラインでは手に入らない「現地限定」の要素が、購買欲を強く刺激している。

また、モバイル決済の普及により、衝動買いの心理的ハードルが大幅に下がっているという指摘もある。


結論:無駄な買い物にこそ価値がある?

イギリス人が国内旅行中に「普段なら絶対に買わないモノを買う」行動は、単なる浪費ではなく、“旅という時間の濃縮”、“非日常の体験の物質化”、“個人的なユーモアや記憶のトリガー”といった、複雑で豊かな意味を持っている。

ロンドン大学の文化人類学者マーク・エヴァンズ教授は次のように結論づけている:

「旅先の“無駄な買い物”とは、記憶のための儀式であり、自己解放の表現でもある。むしろそれを無駄と切り捨てる視点のほうが、現代的な豊かさを見失っているのかもしれません。」

つまり、“旅先での妙な買い物”こそが、旅の本質を物語っているのだ。

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