■ 紅茶の国が冷たい理由 〜イギリス式“やさしさ”の終焉〜

ある朝、ロンドンのどんよりと曇った空の下、ニュースアプリをスクロールしていた私はふと手が止まった。
「政府、障碍者支援を大幅削減へ」——。
ああ、またか。別に驚きはしなかった。だが、驚かない自分に驚く。そう、これは感情の麻痺か、それとも時代の冷笑か。

イギリスという国は、どうも「支援」とか「共生」といった言葉が苦手なようだ。特に自分たちが困窮しはじめたとき、真っ先に切り捨てられるのは、決まって「声の小さな人々」——すなわち障碍者、高齢者、移民、シングルマザーなどである。まるで国家が非常時の沈みかけた船で、「重たい荷物を捨てろ!」と叫びながら真っ先に人間を海に突き落としているようなものだ。

そして、その手には上品な紅茶が握られている。


■ 社会保障は「贅沢品」か?

かつてイギリスは、世界に誇る福祉国家のモデルだった。第二次世界大戦後、ベヴァリッジ報告書によって打ち立てられた社会保障制度は、「ゆりかごから墓場まで」を掲げ、貧困・疾病・無知・不潔・怠惰という“五つの巨悪”に立ち向かう、壮大な社会実験だった。

だが、その理念は今や埃をかぶっている。2020年代に入り、コロナ禍、Brexit、エネルギー危機、インフレ、財政赤字、そして戦争……あらゆる“国難”が一挙に襲いかかる中、政府は社会保障費を「ぜいたく品」扱いし始めた。そして最初に削るのは、決まって「文句を言いにくい人たち」の支援だ。

障碍者は、文句を言わない。
障碍者は、ストライキをしない。
障碍者は、デモの前線に立ちにくい。
だから、彼らの支援は「コスト削減」の最適解になってしまう。

「財政の持続可能性のために」と言えば、正義のように聞こえる。が、それは要するに、「この国にはもう“やさしさ”を支える体力がない」という白旗宣言である。


■ 障碍者は“見えない存在”になった

近年、イギリスでは「障碍者=社会的負担」という隠れた言説がじわじわと蔓延している。もちろん表立ってそんなことを言う人はいない。だが、政策を見れば明らかだ。

たとえば、支援金の受給条件は年々厳格化され、書類の提出は煩雑を極め、医師の診断書も形式的になり、査定官はまるで“支給しないための口実”を探しているかのようだ。さらに在宅支援サービスは削られ、公共交通機関のバリアフリー化も停滞。結果、障碍者たちは社会から“姿を消していく”。

ここで皮肉なのは、こうした政策を正当化する政治家たちが、口をそろえて「インクルーシブな社会を目指す」と宣言することだ。まるで焼き討ちをしながら「街の安全を守ります」と言っているようなものではないか。


■ イギリス的冷酷とは何か

「イギリス人は冷たい」という評判は、こと政治や制度に関しては的を射ている。もちろん個々の人間レベルでは親切な人も多い。だが、「制度」になると、イギリスは突如として“無表情な合理主義者”へと変貌する。

この冷酷さには、二つの根がある。

一つは階級社会の伝統。イギリスは未だに「自己責任」の哲学が根強い。「困っているのは努力が足りないからだ」という発想は、ビクトリア朝時代から延々と受け継がれてきた。障碍者でさえ、「社会の生産性に貢献していない」と見なされれば、支援の正当性を問われる。

もう一つは「見て見ぬふり」の文化。イギリス人は他人の苦しみに極めて寛容である。逆説的に言えば、それは「介入しない自由」でもある。困っている人を見ても、「彼には彼の事情があるのだろう」と考える。これはリベラリズムの極地か、あるいは冷淡の美化か。


■ 「同じ赤い血が流れているのか」と問いたくなる瞬間

イギリスに暮らしていると、しばしば「本当にこの人たちと我々は同じ人類なのか?」と感じる瞬間がある。病院の待合室で4時間待たされ、看護師に詰め寄っても、「他にもっと重篤な患者がいます」と言われると、黙って従う人々。あるいは、車椅子の人が電車に乗り遅れても、誰も手を貸さず、目を合わせない群衆。そこには、共感でもなく、軽蔑でもない、空気のような無関心が漂っている。

「助けるのが当然」という文化ではなく、「助けられる方が恥ずかしい」という無言の空気。それがイギリス的な“やさしさ”の裏面であり、その果てが「支援のカット」なのだ。


■ 「合理性」の暴走が生む非合理

皮肉な話だが、支援をカットしたことで短期的に財政は助かっても、長期的にはコストが増大する。障碍者が孤立すれば、うつ病や自殺リスクが増え、緊急医療や精神医療の負担が増す。仕事に就けなくなれば、社会的損失も拡大する。結局、国家としての生産性も損なわれる。

つまり、これは合理性の暴走が生む、壮大な非合理なのだ。

人間を「コスト」としてしか見なさない国家は、いずれその“人間力”を失う。


■ 結局、何を守るのか?

今、イギリスは「何を守り、何を捨てるか」という岐路に立たされている。国防か、経済か、文化か、あるいは人命か。障碍者支援の削減は、単なる一政策の話ではない。それは、国家の価値観の表れであり、「誰のための国なのか」を問う、根源的な問題である。

答えは明白だ。最も弱い人を守れない国家は、いずれ誰も守れなくなる。


■ 最後に——この国に「やさしさ」は残るのか?

繰り返すが、イギリス人個人は決して冷酷ではない。バスの中でお年寄りに席を譲る人もいるし、スーパーで盲導犬に微笑む人もいる。しかし、国家が“制度”として冷酷になるとき、そのやさしさは無力になる。

国家の成熟とは、単にGDPや防衛力の話ではない。むしろ、それは「見えない声」「届かない訴え」に耳を傾けられるかどうかにかかっている。

冷たい雨が降るロンドンの午後。傘を差した車椅子の男性が、段差の前で立ち止まっている。周囲の誰もが、スマートフォンを見つめて通り過ぎていく。

この国に、まだ「やさしさ」は残っているのだろうか。

私は足を止める。せめて、それだけでも。

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