倒木事故の責任は誰に?イギリスの老木と共に暮らすための法と社会のバランス

1. 街角にそびえる「静かな歴史」

イギリスを旅したことがある人なら、ロンドンの公園や田舎の散歩道で、悠然と立つ巨大な樹木に目を奪われた経験があるだろう。ときには枝を大きく広げ、何百年もその場所で風雨に耐えてきたであろう木々が、まるで街の守り神のようにそこに佇んでいる。

イギリスの都市計画や景観保全の文化は、自然との共生を重んじる伝統に根ざしており、こうした老木は単なる植物ではなく、文化遺産や地域アイデンティティの象徴ともなっている。

だが、そんな歴史を抱えた木が突如として人の命を脅かす存在に変わることもある。突風や嵐の夜、あるいは予期せぬ自然老化によって木が倒れたとしたら――そのとき、誰が責任を負うのか?

この問いは、自然と人が共に生きる社会にとって避けては通れないテーマである。


2. 老木が引き起こす事故:現実に起きた悲劇

実際にイギリスでは、老木の倒壊による死亡事故が発生している。とある地方都市では、歴史ある公園内の木が突如として倒れ、ジョギング中の女性が下敷きになり命を落とした。この事故は全国的に報道され、自治体の管理体制が大きく問われることとなった。

また、2018年にはロンドン郊外の街路樹が強風で倒れ、近くを歩いていた親子に直撃。幸い命に別状はなかったが、訴訟に発展し、裁判所は「予見可能性と管理体制に不備があった」として自治体に責任の一端を認める判決を下した。

このような事件をきっかけに、イギリス社会では「誰が木を管理すべきか」「どこまでが義務なのか」という議論が活発化している。


3. 倒木事故における責任の所在:法的視点から

■ 公共スペースの木:基本的には自治体の責任

イギリスの地方自治体(Local Authority)は、道路や公園、遊歩道など公共スペースのインフラとともに、そのエリアにある樹木の管理責任を負っている。

この管理責任には以下のような義務が含まれる:

  • 定期的な安全点検
  • 必要な剪定や伐採の実施
  • リスクに対する迅速な対応
  • 住民からの通報に対する記録と追跡

しかし、単に木が倒れたからといって自動的に賠償責任が発生するわけではない。重要なのは「過失の有無」だ。法律的には以下の要素が重視される:

  • 予見可能性:事故を防ぐことが可能だったか
  • 管理行為の合理性:専門家による点検を怠っていなかったか
  • 過去の通報履歴:住民からの危険通報が無視されていなかったか

裁判所は、自治体が「合理的に行動していたかどうか」を判断基準とし、完全無過失の責任を負わせることはない。

■ 私有地の木が倒れた場合

一方で、木が私有地から倒れて隣人の家屋を壊したり、公道をふさいだりした場合は、その土地の所有者が責任を問われる可能性がある。

イングランドおよびウェールズにおいては、「Negligence(過失)」の法理が適用される。所有者には“reasonable duty of care(合理的な注意義務)”が求められており、木の異常に気づいていながら放置していた場合には、損害賠償を命じられることもある。

保険会社もこれに応じて、家主保険の中に「倒木による第三者への損害」への補償条項を盛り込んでいるケースが多い。


4. 裁判例に見る「責任の境界線」

● Bowen v National Trust(2001年)

ナショナル・トラストが管理する敷地内で木の枝が落下し、訪問者が負傷。判決では、ナショナル・トラストが木の健康状態をチェックしていた証拠があり、「合理的な注意義務を果たしていた」として免責。

● Micklewright v Surrey County Council(2010年)

老木が幹の根元から折れて倒れ、自転車に乗っていた男性が重傷。過去に地域住民から「傾いていて危険」との報告が複数回あったにもかかわらず、自治体は何の措置も取っていなかった。裁判所は自治体の過失を認定。

このように、点検履歴や通報対応の有無が責任判断に大きく影響するのだ。


5. 「樹木管理」の現場:どんな点検が行われているのか?

多くの自治体では、プロのアーボリスト(樹木医)を雇い、定期的な安全診断を実施している。点検には以下のような手法が用いられる:

  • 目視検査:外観からの異常(腐り、傾き、空洞など)チェック
  • 打音検査:幹を叩いて音の反響から内部の空洞を調査
  • レジストグラフ測定:幹内部の密度を測る機械的検査
  • ドローン調査:高所の枝や葉の状態を空撮

特に高リスクエリア(遊具のある公園、学校、幹線道路沿いなど)では年1〜2回の点検が求められる。


6. 木を守るか、人を守るか:景観と安全のジレンマ

老木の多くは、単なる自然物ではなく、地域の風景の一部であり、精神的な価値をもつ存在でもある。そのため、安易な伐採には地元住民からの反発も起きやすい。

例えば、ブリストルの郊外で進められた「老木の予防伐採計画」は、地域住民の強い反対運動に直面し、数ヶ月にわたる協議の末、伐採が一部撤回された。

一方で、同様の反対運動が行われた別の自治体では、伐採中止後にその木が倒れ、通行人に重傷を負わせるという皮肉な結果に終わったこともある。

このような事例は、「景観の保護」と「人命の安全」のバランスがいかに難しいかを物語っている。


7. これからの課題と市民の役割

◇ テクノロジーの導入

近年では、AIやセンサー技術を使って木の内部腐食をモニタリングする試みも始まっている。デジタルマップと連携し、樹木の「健康スコア」を可視化するシステムの導入が進めば、予防的な管理がより精密に行えるようになるだろう。

◇ 通報制度の強化

また、住民が異変に気づいたとき、すぐに通報できるアプリやWebフォームの整備も重要だ。とくに地方の小さな自治体では、住民の「目」が最前線となる。

◇ 教育と意識改革

樹木の保全には、行政だけでなく、市民一人ひとりの関心と理解が不可欠だ。学校教育や地域活動の中で「木の命」と「人の命」の両方を守るという視点を育てていくことも大切だろう。


8. 結論:老木と共に生きるということ

イギリスの風景には、老木という「生きた記憶」が深く根ざしている。だが、その美しさの裏には、倒木というリスクも確かに存在する。

木を伐るのか、残すのか。責任を問うのか、防ぐのか。これらの問いには、単なる法律論だけでなく、人と自然の関係性そのものを見直す視点が求められる。

結局のところ、老木と共に生きる社会に必要なのは、バランスの感覚だ。景観を守りながら、人命を守る。その両立を可能にするのは、知識と対話、そして持続的なケアの積み重ねである。

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