
「勝つことがすべてではない」。この言葉は一見すると、きわめて正しい響きを持っている。勝敗に一喜一憂せず、人間としての尊厳を守り、互いに思いやる姿勢を育む。それは教育の理想の一つであるに違いない。だが、イギリスが長年にわたりこの方針を徹底してきた結果、果たして社会に何が残ったのだろうか。
学校では競争が排除され、子どもたちは「順位」を突きつけられることも、「負ける」痛みを知ることもないまま育った。努力して頭一つ抜け出すよりも、仲間と並んで歩くことが尊ばれた。もちろん、その環境で救われた子どももいただろう。しかし、その「やさしさ」が大人になった時、彼らを守ってはくれなかった。
なぜなら、社会は学校よりもはるかに苛烈な競争の場だからだ。結果を出した者だけが昇進し、弱い者は仕事を失う。市場の論理は容赦なく個人に突きつけられる。そこに「勝つことがすべてではない」と慰めてくれる教師もいなければ、配慮してくれるカリキュラムも存在しない。
やがて現場での現実に直面したとき、彼らは戸惑った。上司に厳しく叱責されると、それを「人権の侵害だ」と受け止めた。競争に負けることは「自分が劣っている」のではなく「制度が不公正だから」だと解釈した。景気が良かった頃、企業はそれを受け流し、従業員に歩み寄る余裕を持っていた。しかし不況の波が押し寄せると、事情は一変した。
努力の伴わない要求は切り捨てられ、多くの人々は仕事を失い、生活保護に頼らざるを得なくなった。
そのとき、矛先は思わぬ方向へと向かう。移民である。
「自分が正当に評価されないのは移民のせいだ」と。自分たちは本来優秀であるはずなのに、移民の存在がその事実を隠しているのだ、と。そうした虚構の物語に身を置くことで、彼らは現実から目を逸らし続けた。
だが、社会の病理は外から来た誰かのせいではない。問題の根は、長年「競争」を忌避してきた教育と、それに甘んじてきた自身の内にこそある。
もちろん、競争主義一辺倒の教育が人を幸せにするわけではない。勝つ者は誇りを得るが、敗者は深い挫折を抱える。だが、人は負けを知ることで初めて立ち上がる術を学ぶ。叱責に耐えることで強さを育む。努力して成果を勝ち取ることで、自らの存在を肯定する。そうした経験を奪われたとき、人は社会の現実にあまりに無防備なまま放り出されてしまうのだ。
いま必要なのは、誰かが率直に伝えることだろう。
「勝つことはすべてではない。しかし努力せずに生き残れる社会も存在しない」と。
イギリス社会がいま直面しているのは、教育の理念が現実に耐えられなかったことの帰結である。やさしさだけでは人を育てることはできない。むしろ痛みや困難と出会わせることこそが、人を強くする。
教育は人を守るためにある。しかし現実を直視させない教育は、結局のところ、その人を最も危うい場所に立たせる。いまのイギリスが示しているのは、その厳しい真実なのである。
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