
序章:世界中に広がる「English Breakfast」のイメージ
海外旅行先でホテルの朝食に「Full English Breakfast(フル・イングリッシュ・ブレックファスト)」を見つけて、少し心が弾んだ経験のある人は少なくないだろう。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、焼いたトマト、ベイクドビーンズ、マッシュルーム、トースト、そして紅茶。ボリュームたっぷりのそのメニューは、イギリスの伝統的な朝食として世界的に知られている。
しかし、その一方で「実際にイギリス人って、毎朝あんな朝食を食べてるの?」という疑問が湧くこともある。そして、現地に行って驚くのだ。イギリス人の多くは、平日はシリアルやトースト、あるいはコーヒー一杯で済ませているのが実情。English Breakfastは、むしろ“特別な朝ごはん”なのだ。
この現象は、どこか日本人が海外旅行中に和食を求める姿にも似ている。日本では毎日和朝食を食べているわけではないのに、海外に出たとたん「ごはんと味噌汁が恋しい」と感じるあの感覚。
本稿では、「English Breakfastは実は日常的ではない」という事実を踏まえつつ、それでもなぜ世界中で愛され、観光客に求められているのか。そして、それが日本人の“海外で和食を食べたくなる心理”とどう似ているのかを掘り下げてみたい。
第1章:English Breakfastの成り立ちと現代イギリスでの位置づけ
歴史的背景
English Breakfastのルーツは、19世紀のヴィクトリア朝時代にまでさかのぼる。当時の英国では、朝食が一日の中でも特に重要な食事とされ、上流階級の家庭では豪華な朝食を振る舞うことが一種のステータスだった。
ベーコン、ソーセージ、卵、トマト、マッシュルーム、キドニーパイなどを並べた朝食は、訪問客をもてなす際の“お披露目”でもあり、当時の料理書や新聞には「理想の朝食とは何か」という議論が頻繁に載っていた。
やがて産業革命の影響で中産階級が台頭すると、労働者階級にも「フル・ブレックファスト」が広まり、1日のエネルギーを蓄えるための“働く人の朝食”として定着していく。
現代イギリスでの実情
しかし、現代のイギリスにおいて、毎朝このような手間のかかる朝食を食べている人はほとんどいない。忙しい通勤前の朝、用意されるのはシリアル、トースト、果物、ヨーグルト、もしくはカフェで買ったサンドイッチ程度。イギリスの家庭でも、フル・イングリッシュは週末や祝日、あるいはB&B(ベッド&ブレックファスト)やパブでの“特別な体験”として提供されることが多い。
つまり、English Breakfastは「イギリスの日常食」ではなく、「イギリスの文化を象徴する記念メニュー」に近い存在なのだ。
第2章:なぜ旅行者はEnglish Breakfastを求めるのか
「イギリスらしさ」の記号として
観光客がEnglish Breakfastを食べたがる理由のひとつは、「イギリスらしさ」を感じたいという願望だ。イギリスに来たのだから、現地の伝統的な食文化を体験したい。そんな気持ちが、旅行者の朝食選びに表れる。
これは日本人が京都の旅館で「朝からごはんと味噌汁、焼き魚、出し巻き卵」を求める感覚に近い。「せっかく本場に来たのだから、その土地の“本格的な朝ごはん”を味わいたい」という観光心理である。
旅行中の非日常感と“しっかりした朝食”の安心感
旅行中は時間の流れが日常とは異なり、気持ち的にも“ご褒美モード”になっている。そんな中で、豪華なEnglish Breakfastは非日常を味わえるごちそう。特に前日までに疲れが溜まっていると、「今日はしっかり朝ごはんを食べたい」という気持ちになりやすい。
また、ベーコンや卵、パンという構成は多くの国の人にとっても比較的親しみやすく、「どこか安心する」内容であることも理由のひとつだろう。
第3章:日本人が海外で和朝食を恋しがる理由
実は「毎日食べてない」和朝食
日本でも同じことが起きている。普段はトーストとコーヒーだけで済ませている人も、海外に出ると「やっぱり朝はごはんと味噌汁がいい」と感じることがある。
この心理は、文化的な背景だけでなく、「旅先では体調を崩しやすい」「胃腸に優しいものが食べたい」という健康的な理由も大きい。慣れない食事や気候の中で、日本人の身体は“ホッとする食べ物”を求めるようになるのだ。
郷愁とアイデンティティ
そしてもうひとつ重要なのが「郷愁(ノスタルジア)」の要素。特に長期の海外滞在や欧米の食事が続いたとき、「日本食が食べたい」と感じる瞬間が訪れる。これは、単に味の好みの問題ではなく、自分の文化的ルーツを確認し直したいという欲求でもある。
この感情は、イギリス人が旅先でEnglish Breakfastを頼みたくなる心理とも一致する。
第4章:食は文化の象徴であり、記号でもある
料理は「記憶を喚起するスイッチ」
食べ物というのは、単なる栄養補給以上の役割を果たしている。それは記憶や感情、文化と深く結びついていて、人が何を食べたいと思うかには、その人の過去や価値観が投影される。
イギリス人にとってEnglish Breakfastは、「週末のゆったりした朝」「おばあちゃんの家」「家族と一緒の休日」など、温かい思い出とつながっている場合が多い。だからこそ、日常的には食べなくても、旅先や特別な日には無性に食べたくなる。
観光としての食文化
観光地で提供されるEnglish Breakfastや和朝食は、「その国らしさ」を体験させるための“演出”としても機能している。つまり、料理そのものが文化のショーウィンドウになっているのだ。
ホテルのビュッフェに並ぶベーコンやソーセージ、和旅館の一汁三菜は、「その国を食べる」行為そのものであり、観光体験の一部として強く記憶に残る。
第5章:日常から離れたからこそ食べたくなるもの
非日常が呼び起こす「本当の自分」
日常生活では忙しさや合理性を優先して、シンプルな朝食を選びがちだが、旅行中は「普段できないことをしたい」という気持ちが前面に出る。その時、英語圏でEnglish Breakfast、日本人なら和食の朝ごはん、という選択が、自己確認や文化的アイデンティティの表現になる。
これは単に「食べたいから」ではなく、「その食事を通じて自分の立ち位置を確かめたい」という深層心理に基づいている。
結論:イギリス人も日本人も、「文化の味」に戻りたくなる
English Breakfastが世界中で観光客に愛されている理由は、それが単なる料理ではなく、「イギリスらしさを象徴する記号」だからである。そして、それを現地のイギリス人が日常的には食べていないという事実は、むしろその“特別さ”を際立たせる。
同じように、日本人が海外で和朝食を求めるのも、日常的な習慣というよりは「自分の文化に戻りたい」という本能的な動きであり、それはどの国の人にも共通する、非常に人間らしい感情だ。
だからこそ、旅先でEnglish Breakfastを味わう行為は、異文化体験であると同時に、「人間の文化回帰本能」が形になったものとも言えるだろう。
そして次に海外に行ったとき、ホテルの朝食ビュッフェでベーコンと卵を見つけたら、ぜひその背景にある歴史や心理を思い出してほしい。
それは単なる朝食ではなく、「文化を食べる」という行為そのものなのだから。
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