
はじめに:ファッションに潜む「意味」の歴史
人は古来より、衣服や装飾品を通して自己表現を行ってきました。ファッションには単なる美的・実用的な意味以上に、時代背景や社会的なメッセージ、時には無言の抗議やアイデンティティの表明といった多様な意味が込められることがあります。
中でも耳に着けるピアスは、その位置や数、デザインによってしばしば意味が解釈されることがありました。1980年代から1990年代にかけて、アメリカやイギリスなどの西洋社会で広まった「左耳にピアス=ストレート」「右耳にピアス=ゲイ」といった“耳の位置と性的指向の関係”を示す俗説は、その代表例です。
本稿では、この「左耳ピアス=ゲイ」説の由来を探りながら、それがどのように都市伝説として形成され、流布されていったのかを分析します。また、そうした文化的誤解が生まれた背景にある社会状況、LGBTQ+コミュニティの歴史、そして現代におけるファッションの多様性についても考察します。
1. 「耳の位置」に意味がある?ピアスとセクシュアリティの結びつき
1980~1990年代、西洋では男性がどちらの耳にピアスをしているかによって「性的指向を示している」と解釈されることがありました。特に都市部の若者文化やサブカルチャーの中で、
- 「左耳にピアス=異性愛者(ストレート)」
- 「右耳にピアス=同性愛者(ゲイ)」
という認識が噂されるようになりました。
ただし、この左右の区別には地域差や時代による揺れがあり、「右耳がゲイサイン」という説もあれば、その逆を言う人もいました。つまり、元から一貫したルールがあったわけではなく、あくまで“何となくの共通認識”あるいは“噂話”として拡がっていったものだったのです。
では、なぜこうした都市伝説が生まれたのでしょうか?
2. 都市伝説の背景にある「隠れたサイン」文化
この耳の左右に関する説が一部で信じられるようになった背景には、LGBTQ+コミュニティの歴史的事情があります。
20世紀の大半において、同性愛は社会的に差別され、法的にも罰せられる対象でした。そのため、同性愛者たちは自身のアイデンティティを隠しながら生活せざるを得ず、密かに仲間を識別するための「非言語的なサイン」が生まれていきました。
ハンカチコード(Hanky Code)
その代表的な例が「ハンカチコード」と呼ばれるものです。1970年代のアメリカ・サンフランシスコのゲイカルチャーから広まったもので、特定の色や柄のハンカチを後ろポケットに入れることで、自分の性的嗜好やプレイスタイルを暗に示す方法でした。
こうした文化があったことから、「耳のピアスの位置」もまた、同様の“隠されたサイン”なのではないか、という推測が噂として広がっていった可能性が高いと考えられます。
しかし、ハンカチコードのように実際にゲイコミュニティ内部で共有されていた明確なルールと異なり、「耳の位置」に関するルールは、明文化された記録や当事者による証言がほとんど残っておらず、信憑性に乏しいのが実情です。
3. 差別と偏見の中で生まれた“レッテル貼り”
「右耳にピアスをしている男はゲイ」などという話が広まった背景には、差別的なまなざしと無知が混在していた可能性も指摘されています。
1980年代当時、特に男性がピアスをすること自体がまだ一般的ではなく、どこか「女性的」あるいは「反主流的」と見なされがちでした。そうした中で、男性のピアスというファッション表現に対し、「どの耳につけるか」によって意味を見出そうとする動きが生まれました。
そして同時に、「ゲイであること」を否定的に捉える文化が根強く存在していたために、「右耳にピアス=ゲイ」という噂が、いわば“他者を揶揄する手段”として広がってしまったとも考えられます。
このように、耳の位置と性的指向を結びつける俗説は、ファッションに込められた意味というよりも、むしろ偏見や差別の温床として利用された面があるのです。
4. 日本への影響と文化的誤解
このような都市伝説は、アメリカやイギリスだけに留まらず、日本にもある程度輸入されました。
1990年代以降、日本でも「右耳にピアスをしている男性はゲイかも」といった噂がファッション誌やティーン文化の中で散見されるようになります。しかし、当時の日本ではそもそもLGBTQ+に関する社会的理解が浅く、そうした噂も多くの場合、好奇心やからかい半分で語られるものでした。
現代から見れば明らかに無知に基づくものですが、当時はインターネットもまだ発展途上であり、正確な知識にアクセスする手段が限られていたため、都市伝説的な「耳の位置=セクシュアリティ」の信仰が妙に信じられていたのです。
5. 現代におけるピアスと性的指向の“無関係性”
2020年代の今、ピアスの位置と性的指向を関連づけて考える人はほとんどいません。
それは、次のような社会の変化が背景にあります。
・LGBTQ+への理解の進展
近年、世界中で性的マイノリティに対する理解が深まり、差別やスティグマに対する啓発が進んでいます。性的指向を表すサインとしてピアスを用いる必要はもはやなくなり、またそのように分類する行為自体が差別的と認識されるようになっています。
・ファッションの自由化
ファッションの多様化が進み、男性でもピアスをすることが一般的となった現代では、「どの耳に着けるか」を気にする人はほとんどいません。性別や性的指向を超えて、自由に装飾を楽しむ時代になっています。
・ジェンダーレスと個人主義の浸透
ジェンダーレスな価値観が広がる中で、「男だから」「女だから」といった固定的な価値観自体が時代遅れとなりつつあります。今やピアスもその人の個性のひとつとして受け入れられています。
6. 都市伝説から学ぶべきこと:無意識の偏見に気づくために
「右耳にピアス=ゲイ」といった俗説は、たとえ冗談であっても、特定の人々に対して偏見やスティグマを助長する可能性があります。だからこそ、私たちはこうした都市伝説が持つ背景や意味を正しく理解する必要があります。
ファッションを「意味付け」しすぎることは、時に他者の自由を侵害する行為にもなり得るのです。
また、このような俗説が流布されることそのものが、「個人の自由を尊重する社会」にとっていかに有害であるかを再認識させてくれます。
結論:「ピアスの耳」で人を判断しない社会へ
「左耳にピアス=ゲイ」という説は、1980~1990年代の西洋で生まれた都市伝説に過ぎません。確固たる歴史的根拠はなく、実際にLGBTQ+コミュニティで共有された明確なサインだったわけでもありません。
むしろ、このような俗説は、無知や偏見、そしてファッションを通じた他者への「ラベリング」欲求によって広がっていったものだと考えられます。
現代に生きる私たちは、こうした過去の文化的誤解を乗り越え、ファッションを自由な表現として享受できる社会を目指すべきです。
ピアスをする耳の左右に、意味はありません。大切なのは、それを着ける人の個性と意思。そして、私たちがその自由を尊重し、無用な“レッテル”を貼らない態度を持つことです。
※この記事は文化的・歴史的背景に基づく情報をもとに執筆されており、特定の価値観や性的指向を支持・否定する意図は一切ありません。
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