
かつて大学は「知の殿堂」と呼ばれた。時に厳粛で、時に孤独、しかし常に知的格闘が求められる場所。それが今、イギリスの一部三流大学では、「元サッカー選手・ベッカムの影響力についての考察」や「テイラー・スウィフトの歌詞に見る現代女性像」といったテーマで、堂々たる卒業論文が提出され、評価され、そして——驚くべきことに——通っているのだ。
もはや「アカデミック」という言葉の定義を見直す時期なのかもしれない。
“卒業研究”の新たな夜明け
こうした論文は、決して冗談でも中間レポートでもない。れっきとした“卒論”である。100ページ超の力作も珍しくなく、出典にはWikipediaとファンブログがズラリ。口頭試問では「あなたの考えるスウィフトの“Reputation”時代とは?」といった鋭い(?)質問が飛び交う。
中には「デイヴィッド・ベッカムのヘアスタイル変遷とイギリス男性の自己表現」といったテーマもある。いや、確かに学問とは「人間の営み」を探求するものである。だが、まさかモヒカンの歴史を追うことが卒業の鍵になるとは、ソクラテスもびっくりだろう。
大学側の言い分:「興味こそ力」
こうしたテーマを許容する大学側にも、もちろん言い分がある。「学生の興味を引き出すことで、学術的思考力を育む」「親しみやすいテーマの中にこそ深い洞察がある」など、なるほど一見もっともらしい理屈が並ぶ。
だが、「ジョニー・デップの裁判報道が若者の倫理観に与えた影響」といった卒論が、果たして“社会科学”として今後何かを生み出すのかと問われれば、答えに詰まる関係者も少なくない。逆に「TikTok上でのスラングの変遷と若年層のアイデンティティ形成」などというと、なんとなく研究っぽく聞こえるから不思議だ。
将来に役立つ?役立たない?それが問題だ
問題は、それらの卒論が学生の将来にどう結びつくかという点だ。「卒論でテイラー・スウィフトを語ったことが、外資系企業の内定に直結しました!」という話は、今のところ聞いたことがない。むしろ「大学時代はスウィフトの研究をしてました」と自己紹介した瞬間、面接官の笑顔がフリーズする可能性の方が高い。
一方で、学生たちはこう反論する。「研究テーマは何であれ、論理的に構成し、批判的思考をもって掘り下げる力が身についた」と。確かに、ベッカムのヘアスタイルの意義を本気で論じきるには、相当な胆力と創造性が求められる。ある意味では、立派なスキルかもしれない。
アカデミアの行き着く先
とはいえ、これらの傾向が続くと、将来的に「Netflixドラマと現代資本主義の関係」や「ハリーポッターに見る脱サラ願望の高まり」といった卒論が主流になる可能性もある。もしかしたら2040年の大学では「推し活研究学部」が設置され、アイドルと経済成長の関係を真面目に講義しているかもしれない。
現代の三流大学は、もはや「学問の場」ではなく、「共感可能な話題を使って単位を取る場所」と化しているという皮肉な現実がある。だが、もしかしたらその“共感の力”こそが、ポスト真実の時代を生き抜くために必要なスキルなのかもしれない。
そう考えると、我々が時代遅れなのかもしれない。いや、でもやっぱり——ベッカムの髪型って、卒論で語るほどのことだったのだろうか?
コメント