健康志向と誘惑の狭間で揺れるイギリス人の食卓 〜終わりなきダイエットとジャンクフードの無限ループ〜

はじめに

イギリスといえば何を思い浮かべるだろうか。紅茶?ロイヤルファミリー?それとも曇りがちな天気?世界中の人々がイギリスに対して抱くイメージはさまざまだが、「美食の国」とはなかなか結びつかないのが正直なところかもしれない。しかし近年、そんなイギリス人たちの食への意識が変わりつつある。「ヘルシー」「ナチュラル」「オーガニック」「ビーガン」などの言葉が街中のスーパーマーケットやレストランに溢れ、健康志向の波が確実に押し寄せている。

だが、その一方で、イギリスは依然として「ジャンクフード天国」とも言える状況にある。チップス(フライドポテト)、パイ、ピザ、ベーコンに揚げ物、そしてペプシやコーラなどの炭酸飲料。コンビニやパブに一歩足を踏み入れれば、カロリーと脂肪にまみれた食品たちが目を引く。この矛盾をどう説明すればよいのだろう?

実はイギリス人の食生活には、ある独特のリズムが存在している。それは「健康への強い意識」と「ジャンクフードへの抗えぬ誘惑」の間を行ったり来たりする、“食の振り子現象”とも言えるものである。本稿では、そんなイギリス人の食生活の実態と背景、そしてその文化的・心理的要因について掘り下げていきたい。


第一章:健康ブームの到来とイギリス人の意識改革

かつて「世界一まずい料理の国」と揶揄されたイギリスだが、21世紀に入ってからの食に対する意識改革は著しい。特にロンドンやマンチェスターなどの都市部では、スムージー専門店、ヴィーガンカフェ、グルテンフリーのベーカリーなどが目立つようになった。スーパーマーケットには「高たんぱく低脂質」のラベルが貼られた食品が並び、SNSでは「ヘルシーな朝食」や「自家製グリーンスムージー」の写真が日々投稿されている。

多くのイギリス人が、日常的に食事の栄養バランスを考えるようになった背景には、肥満率の高さがある。イギリスはヨーロッパの中でも特に肥満率が高く、2020年の統計では成人の約63%が過体重または肥満とされている。医療費の圧迫や生産性の低下が社会問題化し、政府も「オベシティ戦略(肥満対策)」を打ち出すに至った。

このような社会的背景から、一般市民の間でも健康志向が広まり、特に30代から50代の世代を中心に「食事を見直そう」という動きが強まった。多くの人が食生活を整え、ジム通いを始め、ランニングを習慣にし、グリーンスムージーやプロテインバーを日常に取り入れるようになった。


第二章:新たな食文化の模索

健康ブームに乗って、イギリスには世界中の食文化が入り込んできた。和食、中東料理、地中海料理、インド料理など、多国籍な食文化が「ヘルシー」というキーワードで再解釈され、健康食として再構築されている。ロンドンの中心部には寿司ブリトーやビーガンラーメンなど、伝統と革新が融合した料理も数多く見られる。

また、食のトレンドに敏感な若者たちは、オーガニックやサステナブルといった倫理的な視点も食事選びの基準に取り入れている。「環境に優しいビーガン食を選ぶことが、自分自身の健康にも地球の健康にもつながる」と語る若者たちは少なくない。

しかし、こうした新しい食文化の広がりとともに、イギリス人の間にはある種の「ストレス」も生まれている。


第三章:続かない健康生活のジレンマ

健康を意識して食事に気を使い、運動を始めたイギリス人たち。しかし、実際にはそれを「継続」することが難しいという現実がある。たとえば、1月にダイエットを始めた人の約80%が3月までには挫折しているというデータもある。なぜ彼らは長続きしないのか?

その理由はさまざまだ。まず第一に、「我慢の限界」がある。極端な糖質制限や脂質カットは、短期間で体重を落とすには有効かもしれないが、精神的な負担が大きい。特にストレス社会に生きる現代人にとって、食べることは大切な「癒やし」でもある。健康のために好きなものを断つことが、逆に精神的なストレスとなり、結果としてドカ食いへと繋がることも多い。

第二に、イギリスの外食文化や食品環境が依然として「誘惑」に満ちている点も見逃せない。パブのフライドチキン、ランチタイムのフィッシュ&チップス、深夜のテイクアウェイ・ピザ。どれも高カロリーながら魅力的で、長時間働いた後や週末の楽しみとして、多くの人々がついつい手を伸ばしてしまう。


第四章:リバウンドと罪悪感のループ

健康的な食事を続けた後に、ある日を境に突如として「解禁」モードに入る。これがイギリス人の食生活における典型的なパターンのひとつだ。たとえば、月曜から金曜までサラダとチキン、オートミール中心の食事をしていた人が、金曜の夜になると「もう我慢できない!」とばかりにピザとビールで“チートデイ”を始める。

週末の暴飲暴食が習慣化し、気づけばまた以前の食生活に戻っている。翌週になって体重が増えていることにショックを受け、再び健康的な食事を始める……。このようなリバウンドと罪悪感のループは、イギリス人の多くにとって“食生活あるある”と言えるのではないだろうか。

特に注目すべきは、このようなサイクルに陥ること自体に対して、イギリス人がある種の“ユーモア”で対処している点である。SNS上では「月曜はサラダ王子、水曜はマックの貴族」などと自虐ネタが飛び交い、「続かないけどやめられない」健康志向の姿が笑いとして共有されている。


第五章:文化的背景と心理的要因

このようなイギリス人の食生活の“揺れ”には、文化的・心理的な背景が色濃く影響している。イギリスは伝統的に「慎ましやかな食事」が美徳とされてきた一方で、産業革命以降に広まった労働者階級の「安価で満足感のある食事」も根強く残っている。

また、天候の悪さや日照時間の短さが人々の気分に影響を与え、「食べることによって幸福感を得る」という心理も強く働いている。これは季節性情動障害(SAD)との関係も指摘されており、炭水化物や糖質に手が伸びやすい理由のひとつとされている。

さらに、イギリス社会には「自己管理」と「自由」のバランスに悩む人が多く、ルールに縛られることへの反発も根強い。そのため、厳格な食事制限やダイエットルールがかえって逆効果になることも多いのである。


第六章:今後の可能性と課題

では、イギリス人はこの“食のループ”から抜け出すことができるのだろうか?答えは簡単ではないが、希望はある。たとえば、近年は「バランス重視」のアプローチが支持を集めつつある。完全な糖質制限ではなく、「平日は健康的、週末は少し楽しむ」といった柔軟な食事スタイルが推奨されるようになってきた。

また、マインドフル・イーティング(意識的な食事)や栄養教育の充実も徐々に広がっており、「食べることはコントロールすべき問題ではなく、自分自身との関係を築く手段である」という認識も浸透しつつある。


おわりに

イギリス人の食生活は、健康志向とジャンクフードへの愛情の間を、まるでシーソーのように揺れ動いている。続けようとする努力、しかし誘惑に負けてしまう心、そしてまた立ち上がろうとする意志。この繰り返しの中に、実は「人間らしい食の在り方」が見えてくるのではないだろうか。

完璧を目指すのではなく、楽しみながら健康を意識する――そんな柔軟で等身大のアプローチこそ、これからのイギリスに必要な食のスタイルなのかもしれない。

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