
2009年、当時のイギリス政府は「ロンドンとマンチェスターを最短時間で結ぶ夢の超高速鉄道計画」、いわゆるHS2(High-Speed 2)を提案した。その後、政権交代をはさみつつもプロジェクトは継続され、政治家たちは口々に「イギリスの未来を変える」「国家のインフラ刷新の象徴」「経済成長を後押しする」と声高に語ってきた。しかし、それから16年が経った2025年現在においても、この巨大インフラ計画は着工どころか、建設の可否さえ明確に定まらない状態が続いている。
一体なぜ、ここまで長期間にわたって停滞し、巨額の税金だけが使われ続けているのだろうか。そして本当に、HS2はイギリスにとって必要不可欠なプロジェクトなのだろうか。今回はこの疑問に迫り、HS2が抱える根本的な問題点を明らかにしたい。
■「経済効果○兆円」の根拠なき楽観論
まず最初に、HS2計画を推進する政治家や企業関係者たちが繰り返し用いてきた「数兆円規模の経済効果」について検証してみよう。実際に彼らが根拠として引用するレポートや試算を見ると、交通時間の短縮による労働生産性の向上、地方経済への波及効果など、理論上の効果が並べられているが、そのほとんどが仮定に仮定を重ねた「都合のいい未来予測」に過ぎない。
たとえば「ロンドンとマンチェスター間の移動時間が1時間短縮されれば、年間○千億ポンドの経済効果がある」というような数字は、すべて「時間を節約したビジネスマンがそのぶん仕事に回せる」という前提に立っている。しかし現実には、現代のビジネスの多くはリモート会議で完結し、わざわざ物理的に都市間を移動する必要性が年々減少しているのが実情だ。
■ビジネス需要は幻想、観光需要も限定的
次に、HS2によってどれほどの人が実際に移動するのか、という「実需」について見てみよう。
まず「ビジネス需要」だが、これははっきり言って幻想である。ロンドンとマンチェスターの間を、わざわざ日常的に行き来するビジネスマンがどれほどいるのか。しかも、その「1時間の短縮」が致命的な差になるほどの仕事が、どれほど存在するのか。現状でも電車で約2時間、飛行機を使えばもっと早く移動できるこの2都市を、わざわざ税金を投入して結ぶ必要性が本当にあるのだろうか。
観光需要についても過度な期待はできない。確かに、観光客にとって移動時間が短くなることは一見すると魅力的に思える。しかし、HS2の乗車賃はバカ高く、現在見込まれている初期運賃は片道で£100(約2万円)を超えるとも言われている。わざわざこの価格を払ってまでマンチェスターからロンドン、あるいはその逆方向に移動する観光客がどれほどいるのか、極めて疑わしい。
■巨額な税金投入、それでも着工せず
HS2の試算によれば、プロジェクト全体にかかる費用は当初の計画で約320億ポンド(約6兆円)だったが、最新の見積もりではその倍以上に膨れ上がっている。すでに数十億ポンドの予算が、調査、用地取得、周辺インフラの整備などに使われているにもかかわらず、未だ本格的な着工には至っていない。これは明らかに政治的な無駄遣いであり、国民の血税を浪費していると言って差し支えない。
イギリスは今、医療、教育、福祉、そして地域社会のインフラ整備など、より切実で緊急性の高い分野に多くの予算を必要としている。それにもかかわらず、実需の見込めない鉄道計画に執着し続ける背景には、政治家たちの利権が透けて見える。
■キックバックと政治的パフォーマンス
HS2をめぐる議論で避けて通れないのが「政治的な利権構造」である。大手ゼネコン、コンサルティング会社、建設機材企業、さらには地方自治体との癒着など、この計画には多くの利害関係者が存在する。
推進派の政治家たちは、国の未来を語るふりをしながら、実際には自らの地元に利をもたらすことを目的としたパフォーマンスに終始している。そのため、たとえ実現可能性が限りなく低くとも、メディアで派手な発言を繰り返すことで、支持を得ようとする構図がある。これは公共事業が利権化していく典型例であり、HS2はその最たるものだと言えるだろう。
■「止める勇気」こそが今、求められている
多くの国民が疑問を抱きながらも、HS2は「国家プロジェクト」の名のもとに惰性で進められてきた。しかし、今こそ一度立ち止まり、冷静にこの計画の意義と実行可能性を見直すべきときではないだろうか。
「すでにこれだけ予算を使ったのだから、やめられない」という声も聞こえるが、それこそ典型的な「サンクコストの誤謬」である。誤った選択を続けるよりも、早期に撤退する方が国家にとってはるかに健全である。
■結論:国家の将来を賭けるに値しない
結局のところ、HS2計画は「実用性なき理想論」「根拠なき経済効果」「過剰な建設費」「利権構造」という4重苦にさいなまれている。ロンドンからマンチェスターを結ぶ高速鉄道が、「国家の未来」どころか、一部の企業や政治家にしか利益をもたらさない構造になっていることは明白である。
イギリスが真に必要としているのは、地方の生活基盤の整備や、持続可能なエネルギー政策、老朽化する教育・医療インフラの刷新であり、決して「2時間を1時間半に短縮するための夢の鉄道」ではない。
「イギリスを変える」のは、速い電車ではなく、賢い選択だ。私たちは今こそ、HS2という幻想から目を覚まし、税金の使い道を真剣に見直すべき時に来ている。
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