
1. はじめに:「死滅」ではなく、過熱の果てにある“凍結状態”
近年のイギリス賃貸市場、特にロンドンは、「死にかけている」「もう終わった」といった悲観的な声に満ちている。一方で、家探しをしている人々は今もあふれており、賃料は高止まりどころか上昇を続けている。物件数が極端に不足しているわけではない。むしろ、人々が“恐怖”により引っ越しをためらっているのが現状だ。
「今動くと、来年また値上がりするかもしれない」「今より悪い条件に追い出されるかもしれない」――。そのような不安が蔓延し、市場全体を“凍結”させている。
本稿では、そうしたロンドンの賃貸市場の現状を、統計データ・心理・制度変化・需給バランスなど多角的に分析し、「本当に市場は死んでいるのか」を問う。
2. イギリス全体の賃貸価格動向:全国的に見ればまだ「伸びている」
2025年の上半期、イギリス全土における賃貸価格の平均は、前年同月比で約6.7%上昇した。月額ベースで見ると平均賃料は約1,344ポンドと、インフレ率を上回る勢いで高騰している。
これでも前年比の伸び率はやや落ち着いた印象を与えるかもしれないが、過去3年で見れば累積で20%以上の上昇。これは極めて異常な速度であり、今の賃貸市場がいかに過熱していたかを示している。
特に都市部では、賃料の急激な上昇により「家を借りる」という行為自体がリスクを伴うようになってきた。次に、その“震源地”とも言えるロンドンの市場動向を深掘りする。
3. ロンドン賃貸市場の実情:過熱と萎縮の同居
3.1 平均賃料は約2,250ポンド、最高記録を更新中
2025年6月時点で、ロンドン全体の平均賃貸価格は月額約2,250ポンドに達している。これは前年同月比で7.3%の上昇。過去3年間の上昇率を累計すると、実に25%超という暴騰ぶりだ。
さらに、いわゆる「広告賃料」つまり新しく貸し出される物件の表示価格では、平均2,700ポンド前後まで上昇しており、四半期ごとに過去最高値を更新している状況である。
3.2 地域別の差異と高級エリアの異常値
ロンドンの中でも、ケンジントン&チェルシーやウェストミンスターといった高級エリアでは、月額賃料が3,600〜4,500ポンドにまで達する物件も少なくない。
一方で、東ロンドンや南ロンドンの比較的庶民的なエリアでも、1ベッドフラットで月額1,800〜2,200ポンドが相場になりつつある。これでは、一般労働者や若者が住める物件の選択肢は極めて限られる。
4. 市場が「動かない」理由:引っ越し=地獄のリスク
ロンドンでは今、物件を探している人々が数万人規模で存在している。それにもかかわらず、実際に引っ越しをする人は少ない。これは一見矛盾しているようで、実は極めて合理的な行動である。
4.1 「今より悪くなるリスク」が心理的障壁に
多くのテナントがこう語る。
「今の物件も高いけど、住み替えたらもっと高くなる。更新が怖くて動けない。」
つまり、「今が高すぎる」と分かっていても、それでも来年にはさらに上がっている可能性があるため、誰も“最初の一歩”を踏み出せないのだ。
結果として、空室が出ない。新しい物件は高騰していく。こうしたスパイラルが起きている。
4.2 物件を見に行くだけで100人殺到
不動産仲介業者の話によると、ロンドン中心部で新たに出た賃貸物件には、掲載後48時間以内に50件以上の問い合わせがあるのが普通だという。週末には内見予約で埋まり、1物件に対して10〜15人の競争が起きる。
つまり、需要は枯れていない。むしろ飽和している。それでも動かないのは、「競争に勝てない」「更新後の家賃が怖い」などの理由からだ。
5. 大家側の事情:利回りより空室リスク回避へ
ロンドンの大家(貸主)にとっても、簡単な時代ではない。
- 固定資産税(council tax)や光熱費の一部補助などが負担増になっている
- 貸し出す際の安全基準(EPC規制)が厳格化しており、設備投資が必要
- 法律の変化(後述)により、テナントの追い出しが難しくなっている
そのため、多くの貸主は「家賃を少し安くしても、長く住んでくれるテナントを歓迎する」姿勢に変わりつつある。だがそれでも価格は下がらない。なぜなら供給自体が極端に少ないからだ。
6. 住宅政策と法改正:Renters’ Rights Billの影響
2025年にかけて、イギリスではRenters’ Rights Bill(借り手権利法案)が注目されている。
この法案は以下のような内容を含む。
- セクション21(no fault eviction)の廃止
- テナントの賃料交渉権強化
- 入居者保護のための仲裁制度設立
- 年間家賃値上げ率の制限
これにより、貸主が自由に賃料を引き上げたり、テナントを退去させることが難しくなると予想される。
その結果として、市場に出る物件数が減少し、「確実に貸せる優良物件にだけ人が殺到する」構造が強まっている。
7. 統計的な裏付け:空室率と賃料の相関関係
以下は2025年Q2時点でのロンドン賃貸市場に関する要点である。
指標 | 数値 |
---|---|
平均賃料(広告) | £2,712/月 |
実際の契約賃料 | £2,250/月 |
空室率 | 約1.5%(極めて低い) |
問い合わせ増加率 | 年間+22% |
物件供給数 | 年間−18% |
この数値が示しているのは、「価格が高いから需要が消えた」のではなく、「価格が高いから身動きが取れない」という現実である。
8. 今後の見通し:価格は下がるのか?
短期的には、政府の介入やインフレの落ち着きによって、賃料の伸びはやや鈍化する可能性がある。しかし、「下がる」とは誰も予想していない。
5年間で賃料はさらに15〜20%上昇するという民間予測が主流であり、ロンドンではそれ以上もあり得るとされる。
9. 結論:「死滅」ではなく、「硬直化」という危機
ロンドンの賃貸市場は死んでいない。むしろ、異常なまでの需要と過熱した価格により、「死んだように動かなくなっている」だけである。
- 借り手は家賃の高騰を恐れ、引っ越しを避ける
- 貸し手は制度変更と支出増に怯え、慎重になる
- 市場は成立し続けているが、健全とは言い難い
これが、2025年夏時点におけるロンドン賃貸市場の真実である。
付録:用語解説
- セクション21(Section 21):家主が理由なくテナントを退去させることを可能にする法律。現在は廃止予定。
- EPC規制:Energy Performance Certificate。賃貸住宅にも断熱性能などの基準を求める制度。
- 広告賃料:物件が掲載される際に提示される希望家賃。交渉後の実際契約とは異なる場合あり。
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