
本当の上流階級とは——英国における子どもの躾と階級意識
「イギリスの親は子どもを叱らない」「豊かな家庭では子どもが自由奔放に育つ」といった言説は、日本でも広く流布している。しかし、そうした見方は表層的なものであり、イギリスという国の文化的・階級的背景を深く理解していないことによる誤解である。特に、「真の」上流階級と呼ばれる人々の家庭においては、子どもに対する教育、そして躾は極めて厳格であり、一般にイメージされるような「自由奔放な子育て」からは大きくかけ離れている。
本稿では、イギリス社会における上流階級の子育て観、躾の哲学、そしてその根底にある家系・名誉・評判といった価値観について考察しながら、なぜ「本当の金持ち」ほど子どもに厳しくするのか、その理由を探っていきたい。
■ 表層的な“自由”教育への誤解
現代のイギリスにおいて、特に中産階級以下の家庭では、「子どもを個として尊重する」「自我の形成を妨げない」といった理念のもとに、親が子どもに対して怒鳴ったり、厳しく叱責したりする場面が少ないことは確かである。公園で子どもが少々騒がしくても、それを「元気な証拠」として見守る親が多く見られる。こうした寛容な態度が、外部からは「イギリスの親は子どもを怒らない」という印象を与えているのだろう。
しかし、これは階級社会の中でも“中流以下”に多く見られる風潮であり、社会の頂点に位置する「アッパークラス(上流階級)」では、まったく異なる文化が根付いている。子どもの躾に関しては厳格であり、特に公共の場でのマナーや言動には徹底した注意が払われる。子どもが親の顔を潰すような振る舞いをすることは、家の名誉に関わる重大な問題なのである。
■ “家系”という概念の重さ
上流階級にとって「家」という概念は、単なる家族の集合体ではなく、一つの歴史的存在である。土地と名誉を受け継ぎ、次世代に繋げていくことが使命であり、子どもはその担い手として小さな頃から「家系の代表」として育てられる。これは日本の武家文化にも通じる精神であり、「家を継ぐ」という責任感が自然と育まれる。
例えば、貴族階級に属する家庭では、子どもが五歳になるころにはすでにテーブルマナーや敬語の使い方、訪問時の礼儀といった社会的儀礼が徹底される。これらは家庭内での自然な日常として積み重ねられ、家庭教師やボーディングスクール(全寮制学校)などでも、規律と品位を重んじる教育が繰り返される。
このように、「家の名に恥じない振る舞いをする」ことが常に求められるため、ワガママや無礼な態度は許されないのである。
■ 躾の厳しさは“暴力”ではない
ここで注意したいのは、イギリスの上流階級における“厳しさ”が、決して身体的な暴力や感情的な怒鳴りによるものではないという点だ。むしろ冷静で理性的、時に淡々とした態度で子どもを制する。公共の場で大声で怒鳴るようなことはしない。叱責はあくまで私的な空間で、理路整然と行われる。
子どもが失礼なことを言えば、その場で穏やかに制止され、後に厳しく諭される。親が感情を爆発させることは、逆に「品位を欠いた行為」と見なされる。つまり、子どもだけでなく、親自身も常に品格ある振る舞いを求められるのだ。これこそが、上流階級特有の「教育の気高さ」と言える。
■ 親の顔は子どもに出る、子どもを見れば家柄がわかる
イギリスの古い格言に、「子どもを見れば親がわかる(You can tell a family by its children)」というものがある。上流階級では、これがただの言い回しではなく、厳然たる現実として信じられている。
例えば、ある子どもが招かれたガーデンパーティーで他の客に無礼な態度を取ったとする。それは即座に「この家の子育てはどうなっているのか」「この家に教養はあるのか」といった評価につながり、その家庭の社交的信用や関係にすら影響を及ぼす可能性がある。
こうした社会的リスクを未然に防ぐためにも、子どものうちから厳しいマナー教育が施され、少しの非礼も許されない雰囲気が構築されるのである。
■ “自由”は規律の中にあるという考え方
興味深いのは、上流階級の親たちが決して子どもを「押さえつける」ことを目的としていない点である。厳格な規律のもとに自由な人格を育てる、という哲学がある。つまり、外的な制限を課すことで内面的な自由と責任を涵養するという姿勢だ。
このため、上流家庭の子どもたちは自立心が高く、対話能力にも長けている。幼少期から大人との会話を重ねてきた経験があるからこそ、議論の作法や意見の伝え方を心得ており、「自由な子」ではなく「自律した子」に育つのである。
■ 階級文化と躾観の断絶
現代イギリスにおいては、階級間の文化的断絶がかつて以上に浮き彫りになっている。中産階級以下ではリベラルな子育てが主流となり、子どもの個性や自由を最大限に尊重する育児スタイルが普及している。一方、上流階級では今なお“伝統的な教育”が維持されている。
このため、「イギリスでは親が子どもを怒らない」といった一般化された主張は、ある特定の層に限られた現象であり、国全体、あるいは上層階級全体に当てはまるものではない。むしろ、そうした観察はイギリスの階級構造を理解する絶好の手がかりであり、子育てを通して社会構造の深淵に触れることができる。
■ 真の“余裕”とは何か
最後に、「お金持ちは余裕があるから子どもを叱らない」とする考えについて再考してみよう。確かに経済的に恵まれた家庭では、生活のストレスが少なく、親が穏やかに子どもと向き合うことができるだろう。しかし、真の上流階級における「余裕」とは、金銭的なもの以上に、“家を守るための責任”を冷静に果たす知性と自制心に基づいている。
その余裕は、ただの甘やかしではなく、厳格な規律と矜持に裏打ちされたものなのだ。そこには、長い歴史と伝統を背負った者だけが持ち得る、静かな覚悟がある。
結びに代えて
子どもを見ると親がわかる。親を見ると家がわかる。そして家を見ると階級がわかる——。これは現代イギリスにもなお生きている階級社会の現実である。表面的な教育観にとらわれず、その背景にある文化や価値観まで見通すことができたとき、はじめて「本当のイギリス」の姿が見えてくるのではないだろうか。
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