朝10時にパイントを──英国という名の液体燃料社会

朝10時にパイントグラスでビールを飲むイギリス人男性。パブの中で“OPEN”サインと10時を指す時計が見える、皮肉なイラスト調の風景。

ロンドンの街がまだ完全に目を覚ます前、通勤客がコーヒーを手に地下鉄へ吸い込まれていく頃、すでに一部の店は黄金に輝くネオンを灯している。「Open」──朝10時だ。いや、正確には、まだ10時だ

それでも、そこにはもう誰かがいる。
老舗の木製の扉を押し開ければ、濃厚なモルトとカーペットの湿気の混ざった香り。カウンターの向こうでは、バーテンダーがまるで祈りの儀式のように、静かにビールの泡を整えている。その手つきには芸術性すら感じる。客はまだ数人。だが、彼らの目は既に遠くを見ている──多分、現実ではなく、パイントグラスの底の方を。

イギリスという国は、紅茶と秩序の国だと思われがちだが、実際には午前中からパイントを掲げる人々の国でもある。朝10時からパブにいる彼らに、後ろめたさはない。むしろ誇らしげだ。
「朝から飲むのは仕事みたいなもんだ」と言う老人。
「夜になると混むから、今のうちに静かに飲みたいんだ」と言う会社員。
「夜まで待つ理由がどこにある?」と笑う大学生。

なるほど、合理的である。これがブリティッシュ・ロジックだ。

カウンターの上では、常連のジョージが新聞を広げながらギネスを啜っている。見出しには「イギリスの生産性が低下」とある。皮肉にも、ジョージはその“低下”を体現する存在として完璧だ。
「お前らが会社で会議してる間、俺はここで世界の真実を見てるんだ」と彼は言う。確かに、パブの鏡には世界が映る──ゆがんで、泡立って、少しぬるいけれど。

パブの朝は、特別な時間だ。夜のように騒がしくもなく、昼のように慌ただしくもない。そこには、人生を全力であきらめていない人たちの穏やかな諦観が漂っている。
スポーツニュース、タップルームの笑い声、古いジュークボックスのエルビス。時計の針が進む音すら、どこか酔っている。

外では観光客が「本物のイギリス文化」を探して歩いている。だがその答えは、案外この中にあるのかもしれない。紅茶でもアフタヌーンティーでもなく、朝10時のビールこそが、英国の真髄なのだ。

夕方、同じ店を通りかかると、朝からいた顔ぶれがまだ残っていることもある。時間は流れても、パイントの中では止まったまま。彼らにとって、午前と午後の境界はビールの泡に溶けている。

おそらく、誰も彼らを止めない。なぜならイギリスとは、自由と節度と、そしてアルコールで保たれる秩序の国だからだ。

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