ロンドンの街がまだ完全に目を覚ます前、通勤客がコーヒーを手に地下鉄へ吸い込まれていく頃、すでに一部の店は黄金に輝くネオンを灯している。「Open」──朝10時だ。いや、正確には、まだ10時だ。
それでも、そこにはもう誰かがいる。老舗の木製の扉を押し開ければ、濃厚なモルトとカーペットの湿気の混ざった香り。カウンターの向こうでは、バーテンダーがまるで祈りの儀式のように、静かにビールの泡を整えている。その手つきには芸術性すら感じる。客はまだ数人。だが、彼らの目は既に遠くを見ている──多分、現実ではなく、パイントグラスの底の方を。
イギリスという国は、紅茶と秩序の国だと思われがちだが、実際には午前中からパイントを掲げる人々の国でもある。朝10時からパブにいる彼らに、後ろめたさはない。むしろ誇らしげだ。
「朝から飲むのは仕事みたいなもんだ」と言う老人。
「夜になると混むから、今のうちに静かに飲みたいんだ」と言う会社員。
「夜まで待つ理由がどこにある?」と笑う大学生。
なるほど、合理的である。これがブリティッシュ・ロジックだ。だが、そのロジックの背後には、長年積み重なった疲労と孤独が沈殿している。
カウンターの上では、常連のジョージが新聞を広げながらギネスを啜っている。見出しには「イギリスの生産性が低下」とある。皮肉にも、ジョージはその“低下”を体現する存在として完璧だ。「お前らが会社で会議してる間、俺はここで世界の真実を見てるんだ」と彼は言う。確かに、パブの鏡には世界が映る──ゆがんで、泡立って、少しぬるいけれど。
イギリス社会にとってパブは「逃避の場」であると同時に「告白の場」だ。家族に話せないこと、職場で吐き出せないこと、政治に裏切られた怒り──すべてがここで泡とともに消えていく。国家が提供するメンタルヘルスの支援よりも、1パイントのビールのほうがよく効くのだから。
統計によれば、英国では週に1回以上飲酒する成人が60%を超える。特に中年男性の「孤独な飲酒」は社会問題化して久しい。それでも、誰も朝10時のパブを非難しない。なぜならそれは、労働と倦怠のバランスを取るための、いわば「国民的免罪符」だからだ。
そして、この現象は経済とも無関係ではない。低賃金労働、長時間通勤、家賃の高騰。何かを所有するために働くはずが、働くことで自分をすり減らす。そんな矛盾を忘れるために、人々は一杯を手に取る。パブは、資本主義がつくった疲労社会の“最も英国的な治療薬”なのだ。
スポーツニュース、タップルームの笑い声、古いジュークボックスのエルビス。時計の針が進む音すら、どこか酔っている。ここでは時間も経済も、いっとき止まる。だが外の世界は止まらない。物価は上がり、賃金は停滞し、若者の未来はパイントよりも軽い。
外では観光客が「本物のイギリス文化」を探して歩いている。だがその答えは、案外この中にあるのかもしれない。紅茶でもアフタヌーンティーでもなく、朝10時のビールこそが、英国の真髄なのだ。なぜならそこには、歴史、階級、孤独、ユーモア、そしてあきらめきれない希望が、泡のように混ざり合っているから。
夕方、同じ店を通りかかると、朝からいた顔ぶれがまだ残っていることもある。時間は流れても、パイントの中では止まったまま。彼らにとって、午前と午後の境界はビールの泡に溶けている。
おそらく、誰も彼らを止めない。なぜならイギリスとは、自由と節度と、そしてアルコールで保たれる秩序の国だからだ。そしてその秩序の綻びの中に、現代英国の真実が静かに見える──ビールの泡越しに。
英国生活サイト編集部の補足
午前10時からパブでお酒を飲む光景は、老人や中年男性に限ったことではありません。
若者の中にも働かず、失業手当を受け取り、その足でパブに向かうという姿が、今や当たり前のように見られるようになってきています。
そして彼らは、「移民に仕事を奪われている」と嘆きます。
しかし、多くのイギリス人経営者が「イギリス人と移民のどちらを雇うか」という質問に対して、「間違いなく移民を雇う」と答えるのも無理はありません。理由は明白です。
イギリス人は朝の10時からパブでビールを飲んでいますが、午前10時からビールを飲んでいる移民など、ほとんど見たことがないからです。
イギリス経済が現在のように低迷してしまったのは、ブレグジットを機に、機動力のあった東欧の労働者を失ったことが大きな要因です。
本来であれば、イギリス人がその穴を埋めるべく仕事に打ち込むべきでしたが、現実はそうではありませんでした。
結果として、即戦力となる労働力(東欧人)を失い、その代わりとなるイギリス人はまったく機能せず、多くの企業が経営不振に陥り、景気悪化が止まらなくなってしまったのです。
正直に言えば、イギリス人には危機感というものがほとんどありません。
収入が減っても海外旅行には行き、贅沢をやめようとしない。
このままでは、今後10年は景気のどん底を這い続けることになるのではないでしょうか。










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