
1|“伝統の喪失”を誰のせいにするのか
イギリスで「伝統が消えつつある」と語られるとき、矛先はしばしば移民に向けられる。だが、もし“イギリス人らしさ”を形づくってきた中核――信仰、共同体、国家への誇り、礼節、公共文化――が薄れたのだとしたら、それは本当に外側から侵食されたのだろうか。
結論から言えば、主要因は内側にある。イギリス人自身が価値の優先順位を入れ替え、共同体的な実践よりも個人の自由や快適さ、グローバルな趣味嗜好を選ぶことを“普通”にした。伝統は敵に破られたのではない。放置され、手入れをやめた庭のように、静かに衰えたのである。
2|“英国的”の解体:誇りの低下という事実
英国的アイデンティティが緩む第一の徴候は、「誇り」の後退だ。過去10年で「この国の達成を誇りに思う」人の割合は下がり、英国が他国より優れていると感じる人も減っている。誇りの希薄化は、儀礼や記念日、象徴(王室、国旗、戦没者追悼など)に投じられる感情的・実践的エネルギーを直接的に弱める。文化は、誇りという燃料なしには動かない。
3|宗教は“例”にすぎない――それでも示唆的な理由
ここで宗教、とりわけ教会を取り上げるのは、それが“イギリスらしさ”の総合体――建築、音楽、共同体、礼節、時間感覚――を束ねる場だったからだ。しかも宗教は「数」で語れる。
2021年の国勢調査では、キリスト教と自認する人が46.2%にとどまり、初めて過半を割った。逆に「宗教なし」は急増している。高齢層ほどクリスチャン比率が高いため、将来的にはさらに縮小圧力が強まると見込まれる。
重要なのは、これは外部から強いられたのではなく、イギリス人自身が「教会に行かない」「礼拝を自分事としない」という選択を繰り返してきた結果だということだ。
4|教会という「場所」が消えると何が失われるか
出席が下がれば、場所そのものが維持できない。イングランド国教会は毎年20〜25軒ほどを礼拝目的で閉鎖しており、過去10年で200近くが消えた。国全体ではこの10年間で3500軒を超える教会が閉鎖されている。
さらに、老朽化や修繕費の不足で「危険遺産」に登録される教会も増えており、現在では1000件近い礼拝所が危機リストに載っている。教会は単なる宗教施設ではない。地域のランドマークであり、共同体の集会所であり、フードバンクや冬の避難所としても機能してきた。建物の閉鎖は、文化の象徴を失うと同時に、地域のインフラをも削り取っている。
5|“イギリス人らしさ”を弱めた四つの自己選択
- 批判の常態化と誇りの撤退
歴史の陰影を直視する姿勢は健全だが、それが祝う語彙そのものを奪えば、誇りは萎み、日常のふるまいまで変質する。 - 共同体より個を優先する時間設計
面倒な日曜礼拝や奉仕活動をやめ、便利さや自己実現を優先するライフスタイルが当たり前になった。 - グローバル趣味の選好
世界中の音楽や食文化を享受する豊かさは、地域固有の“退屈な反復”を駆逐する。 - 参加から観戦へ
建築や儀式を「鑑賞」はしても、担い手として「参加」はしない。文化は観客数ではなく担い手の数で生き残る。
6|「外圧」よりも「内発」の方が説明力がある
移民や多文化化は確かに環境を変えた。しかし、伝統を守るかどうかは常にイギリス人自身の選択だった。出席者が減り、献金が減り、維持の手が足りなくなったからこそ教会は閉鎖されている。つまり伝統は、外から押し潰されたのではなく、内側からの無関心によって力を失ったのである。
7|“失ったもの”の中身――抽象ではなく、具体
- 時間の共同性:国の儀礼や日曜礼拝のリズムが薄れた。
- 場所の共同性:村や町の教会、記念碑、商店街の中心的空間が縮小した。
- 語りの共同性:誇りと反省のバランスが崩れ、祝う言葉が乏しくなった。
- ふるまいの共同性:寄付、奉仕、鐘を鳴らすといった習慣が失われた。
8|再興の条件――“批判的誇り”という中庸
これから必要なのは、盲目的な自慢でも、自己否定でもない。「批判的誇り」だ。過去の過ちを認めつつ、譲り合い、自治、礼節といった美徳を祝う語彙を再発明すること。
実践的には、短時間でも関われる参加の仕組み、教会やホールの多目的化、祝う語彙の刷新などが求められる。
9|“例”としての教会――それでも数字は雄弁
- 2021年、イングランドとウェールズで自認クリスチャンは46.2%。
- 高齢層に偏るため、世代交代とともにさらに縮小が進む。
- イングランド国教会は毎年20〜25軒を閉鎖。
- 全国で10年あまりの間に3500軒以上が閉鎖。
- 危機リストにある教会はおよそ1000件。
宗教はここでの中心テーマではない。ただし数字で示せるからこそ、選択の累積が伝統の衰退につながることを明確に教えてくれる。
10|結び:失われたのではなく、手放した
“イギリス人らしさ”は、外から盗まれたのではない。自ら手放したのだ。個の快適さやグローバルな嗜好は悪くない。だが共同体の実践を代替するものではない。
もし取り戻したいなら方法は単純だ。小さくても、継続的に参加すること。行事に顔を出し、場を維持し、祝う言葉を紡ぎ直すこと。そこに移民か否かは関係ない。文化の担い手であるか否か――その一点だけが未来を分ける。
Comments