「イギリスは昔、犯罪者の島流し先としてオーストラリアを使っていた」という話は、本当なのでしょうか。
答えは、本当です。 イギリスは1788年から1868年までの約80年間、現在のオーストラリアに当たる植民地へ、大勢の囚人を送りました。オーストラリア国立博物館によると、その数は約16万2,000人に上ります。National Museum of Australia
ただし、当時の制度を理解するには、「犯罪者」という言葉から想像する人物像を少し広げる必要があります。送られた人々には、凶悪犯罪者だけでなく、ハンカチを盗んだ人や、まだ子どもだった人まで含まれていました。State Library of New South Wales
なぜ、わざわざ地球の反対側へ送ったのか
オーストラリアが流刑先になる前、イギリスは北米の植民地へ囚人を送っていました。ところが、アメリカ独立戦争によって、その送り先を失います。流刑判決を受けても移送できない囚人が、本国にとどまることになったのです。The National Archives
そこで使われたのが、古い船を改造した「監獄船」でした。川や沿岸に係留した船に囚人を収容しましたが、過密で不衛生な環境は病気の温床になりました。イギリス政府は、新しい流刑先を探す必要に迫られます。National Museum of Australia
その候補として選ばれたのが、オーストラリア東岸でした。
この政策には、囚人を本国から移すと同時に、その労働力で植民地を建設するという役割がありました。刑罰と植民地拡大が、一つの制度の中で結び付いていたのです。UNESCO World Heritage Centre
シドニーの始まりには、囚人を乗せた船団があった
1787年5月、イギリスを出発したのが、11隻からなる「第一船団(First Fleet)」です。指揮官はアーサー・フィリップ。囚人だけでなく、海兵隊員や行政担当者なども乗っていました。National Museum of Australia
航海は約8か月に及び、船団は1788年1月にオーストラリアへ到着。当初の候補地だったボタニー湾から移動し、1月26日にシドニー・コーブで流刑植民地の建設が始まりました。現在のシドニーにつながる英国植民地の出発点です。National Museum of Australia
送り出された人々にとって、これは簡単に帰れる旅ではありませんでした。出発を前に、硬貨を加工して家族や恋人への言葉を刻み、別れの記念品として渡した囚人もいました。国立博物館に残る「コンヴィクト・トークン」は、遠い土地へ送られる人々の思いを今に伝えています。National Museum of Australia
ハンカチを盗んでも流刑。送られたのは誰だったのか
ニューサウスウェールズ州立図書館によると、流刑の最も一般的な理由は窃盗でした。スリ、万引き、家畜の盗難、住居への侵入、盗品の受け取りなどが含まれ、ハンカチのような小さな物を盗んだ場合にも、流刑の対象になり得ました。State Library of New South Wales
もちろん、暴力を伴う強盗や、殺人、性犯罪、偽造などで送られた人々もいました。流刑囚をすべて「貧しさから食べ物を盗んだだけの人」と考えるのも、実態とは異なります。State Library of New South Wales
さらに、女性や子ども、政治的な意見や活動を理由に有罪となった人々も対象でした。当時の流刑制度は、今日の感覚でいう「危険な犯罪者だけを遠ざける制度」より、はるかに幅広い人々に適用されていたのです。UNESCO World Heritage Centre
到着後に待っていたのは、植民地をつくる労働
囚人たちは、オーストラリアに着くと全員が牢屋に閉じ込められたわけではありません。政府のために道路をつくったり、農場で働いたり、自由移民のもとで労働に従事したりしました。National Museum of Australia
遠い土地へ送り、そこで働かせること自体が刑罰でした。自由を奪われた人々の労働が、植民地の建物や港、社会基盤の整備を支えていたのです。UNESCO World Heritage Centre
規律違反への処罰も厳しく、むち打ちや、足かせ・鎖を付けた状態での重労働が行われました。「海外へ移住する機会を与えられた」と軽く表現できるような制度ではありません。State Library of New South Wales
一方で、行状によって自由を段階的に得られる仕組みもありました。「チケット・オブ・リーブ」という許可を得ると、指定された地域に住み、当局への報告などの条件を守りながら、自分で働いて収入を得られました。有期刑を終えた人には、刑期を満了したことを示す「自由証明書」が発行されました。library.gov.au
刑期を終えた後も、オーストラリアに残った人々は多くいました。流刑囚から、土地を持ち、仕事や家庭を築く住民へと変わっていったのです。National Museum of Australia
元流刑囚の女性が、20ドル紙幣の肖像になった
その人生の変化を象徴する一人が、メアリー・リービーです。
イギリスで十代の頃に馬を盗んだ罪で捕まり、7年間の流刑を言い渡された彼女は、1792年にニューサウスウェールズへ到着しました。後に結婚し、夫の死後は7人の子どもを育てながら事業を引き継ぎ、海運や不動産などの分野で成功を収めます。banknotes.rba.gov.au
そして現在、彼女の肖像はオーストラリアの20ドル紙幣に描かれています。 オーストラリア準備銀行は、流刑囚として到着し、後に成功した実業家として彼女を紹介しています。banknotes.rba.gov.au
囚人として海を渡った少女が、後世には紙幣で功績をたたえられる人物になる。この一人の人生だけでも、流刑囚の歴史を「犯罪者が送られた」で終わらせられないことが分かります。
なぜ、オーストラリアへの流刑は終わったのか
植民地社会が発展すると、囚人の受け入れに反対する声が強まりました。自由移民の間には、犯罪や植民地の評判への懸念があり、制度の残酷さや、刑罰としての効果も問われるようになります。National Museum of Australia
ただし、各地が一斉に受け入れをやめたわけではありません。西オーストラリアでは、労働力不足を補うために囚人の受け入れを求める動きもありました。英国政府と植民地側、さらに植民地の住民同士でも、利害は一致していなかったのです。National Museum of Australia
最後の囚人輸送船「ウーグモント号」が西オーストラリアのフリーマントルに到着したのは、1868年1月9日。この到着をもって、オーストラリアへの流刑は終わりました。National Museum of Australia
その土地には、すでに暮らしていた人々がいた
流刑の歴史を語るうえで欠かせないのが、先住民の存在です。
イギリスが植民地を築いた土地には、すでに先住民の社会と文化がありました。英国人の入植は、土地からの追放、暴力的な衝突、天然痘などの病気の拡大をもたらし、先住民の暮らしを大きく変えました。National Museum of Australia
流刑囚にとって新しい生活の場となった土地が、先住民にとっては奪われていく故郷でもあった。この二つの歴史を、一緒に見る必要があります。
現在、当時の施設の一部は「オーストラリア囚人遺跡群」として世界遺産に登録されています。そこに残る建物は、囚人の苦難と、強制労働を使って領土を広げた大英帝国の歴史を伝えています。UNESCO World Heritage Centre
「イギリスはオーストラリアを島流し先にしていた」という話は、確かに史実です。その先にあるのは、厳しい刑罰を受けた人々の人生、植民地を築いた労働、そして土地を失った先住民の歴史です。現在のシドニーの風景も、20ドル紙幣の肖像も、その過去を知ると少し違って見えてきます。










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