
「階級社会」──この言葉ほど、英国という国を象徴し、また呪縛してきたものはない。
19世紀の産業革命以来、英国は、貴族・中産階級・労働者階級という明確な階層を持つ社会として知られてきた。だが現代の英国を覆う「格差」の実相は、もはや静的な「階級」という枠組みでは説明できない。むしろそれは、容赦なく、そして日々更新される「流動的な断絶」として、社会の根幹を侵食している。
2020年代のイギリスでは、フルタイムで働きながら生活が成り立たない「ワーキングプア」が急増し、都市部から押し出された若者たちは地方へと追いやられていく。AIと自動化が雇用の前提を覆し、「労働=生活の保障」というかつての常識はもはや通用しない。
これは単なる経済の停滞ではない。希望そのものの喪失である。
格差が「構造」に変わった瞬間
ロンドン市内のビジネス街──そこでは年収が数億円を超える企業役員が高級車で乗りつけ、グラス片手に会話を交わす。同じ時刻、地下鉄のトンネルの先では、清掃員や運転士が汗だくで一日を終え、家賃が払えずフードバンクに通う現実がある。両者の交わることは、物理的にも社会的にも、もうない。
格差はかつて「不運」として描かれたが、いまや「設計」されている。
例えば教育。私立校と公立校では、教育資源、教師の質、進学実績に著しい差がある。オックスフォードやケンブリッジといった名門大学は、依然として中・上流家庭の子弟に占められており、労働者階級の子供がそこに入るには、社会的な“ジャンプ”が求められる。
また、住宅市場は中間層以下を容赦なく締め出している。ロンドンでは、住宅価格の高騰により、年収3万ポンド以下の人々は中心部に住むことができず、通勤に片道2時間以上かける者も珍しくない。この空間的な分断が、生活の質だけでなく、政治的な声をも遠ざけている。
「フルタイムで貧困」という現実
「働いても報われない」。かつては発展途上国に向けられたこの言葉が、いまやG7先進国の一角を占めるイギリスの主要都市で現実のものとなっている。ワーキングプアの実態は、政府統計だけでは捉えきれない。
一部のデータでは、英国の労働人口の約20%が「生活困窮ライン」にあるとされる。これには、保育士、介護士、配送員、レジ係といった、人々の生活を支える「エッセンシャルワーカー」が多数含まれる。コロナ禍の際に「社会を回した」彼らの多くは、パンデミック後に真っ先に「切り捨て」られた。
その理由は単純だ。これらの職業は、賃金が低く、代替が効きやすいと見なされている。そして今、それらの職が、次々とAIや自動化に取って代わられようとしている。
AIと「見えない失業」
AIや自動化技術の進化は、表面的には「進歩」とされる。しかしその裏で進行しているのは、「見えない失業」だ。
英国の大手スーパーマーケットでは、すでにセルフレジが主流となり、従来のレジ係は不要となった。カスタマーサポートはチャットボットに置き換えられ、物流センターではロボットが24時間稼働する。これらは確かに効率化を実現しているが、一方で「再就職の難しい失業者」を大量に生み出している。
こうした労働市場の変化は、単なる技術革新ではなく、「社会契約の再定義」を我々に迫っている。
地下トンネルに取り残された社会
現代イギリス社会は、もはや光の射す出口を見失った地下トンネルの中にある。景気回復のニュースは一部で報じられても、その恩恵が市井の人々に届くことはほとんどない。むしろ、生活費の上昇、税負担の増加、社会保障の削減が同時多発的に進行している。
政治はどうか。かつては「中道左派」として庶民の声を代弁した労働党でさえ、今や都市部の中間層向けの政策に傾斜している。保守党は言わずもがな、富裕層寄りの経済政策を推し進めており、既存政党はどちらも「地下トンネルからの脱出路」を描けていない。
希望はあるのか──新たな社会契約へ
それでも、絶望するには早い。
まず第一に必要なのは、「労働と報酬」に関する再定義だ。いまや、全員がフルタイムで働いて生活できる時代ではない。であれば、ベーシックインカムの導入や、労働時間の短縮、ジョブシェアの推進といった、新しい社会的枠組みが求められる。
次に、教育と住宅への大胆な投資が不可欠である。学費の無償化、地域格差の是正、若者向けの住宅政策──これらは「経費」ではなく、「未来への投資」だ。
そして政治。もはや既存の左右の枠組みでは対応できない。必要なのは、「包摂(インクルージョン)」という思想に基づいた、新しいビジョンだ。これは単なる経済成長ではなく、「誰も取り残さない社会」を志向するものでなければならない。
未来は「到来」するものではない
歴史は待つ者のもとには訪れない。未来は、掴みにいくものである。
英国が直面している格差、見えない失業、教育と住宅の不平等。それらは一朝一夕に解決する問題ではない。だが放置すれば、それはやがて社会全体の機能不全と分断、そして民主主義そのものの危機へとつながっていく。
この地下トンネルから抜け出す道は、容易ではない。だが、道が見えないからといって、存在しないわけではない。必要なのは、正しい方向へと進む「意志」と「想像力」だ。
そして何より、それを支えるのは、私たち一人ひとりの「声」である。
英国のトンネルの先に、光はあるか。
答えはまだ、闇の中にある。
だが、その闇の中で目を閉じるのではなく、目を凝らすこと──
そこからしか、未来は始まらない。
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