「医療費無料でも訴訟は絶えない」— イギリスの医療ミス訴訟の現実と背景にある制度の歪み

はじめに

「イギリスでは医療費が無料だから、医療ミスが起きても裁判にはならないのでは?」——こうした素朴な疑問は、日本など自己負担制度が前提の国から見るとよくある誤解だ。しかし現実のイギリスでは、国家が提供する無料医療制度(NHS:National Health Service)のもとでも、医療ミスに関する訴訟が日常的に発生しており、しかもその件数や補償額は年々増加傾向にある。

この記事では、医療費無料制度という「理想」にもかかわらず、なぜ医療過誤が訴訟にまで発展するのか。制度的背景、訴訟の実態、そして倫理的ジレンマまでを多角的に検証する。


第1章:NHSとは何か?

イギリスのNHSは1948年に創設され、「誰もが無料で必要な医療を受けられること」を理念に掲げる世界に先駆けた公的医療制度である。国の予算で賄われ、原則として国民は診察、手術、入院、出産などに費用を支払う必要がない。つまり、「医療=公的サービス」と位置づけられている。

この制度は人道的な観点からも高く評価されており、特に所得の少ない人々にとっては救いとなっている。一方で、財政的・運用的な問題が常に存在し、長い待機時間、人員不足、設備の老朽化などの課題が深刻化している。


第2章:医療ミスの実態と訴訟件数

「医療費が無料だから訴訟が起きにくい」というのは、必ずしも事実ではない。NHSリゾリューションズ(NHS Resolution)の報告によれば、2023年度だけでもNHSに対する医療過誤の賠償請求件数は12,000件を超え、支払われた賠償額は合計26億ポンド(約5000億円)に達した。

特に目立つのが以下のようなケースである:

  • 出産時の処置ミスによる新生児の脳障害
  • がんの誤診や見逃し
  • 救急搬送の遅延による死亡
  • 手術中の誤処置、感染症対応の不備

このようなケースでは、被害者が一生にわたる医療的・経済的支援を必要とすることが多いため、訴訟の損害賠償額も非常に高額になりがちである。


第3章:なぜ訴訟が頻発するのか?

1. 制度上の脆弱性

NHSは人員不足や過密勤務に常に晒されており、スタッフのミスが起きやすい構造的問題を抱えている。COVID-19以降は特に医療従事者のバーンアウトが深刻化し、組織的な管理が行き届かなくなることが増えている。

2. 情報公開と訴訟文化の定着

イギリスでは「説明責任(accountability)」と「情報公開(transparency)」が法制度の中核にあり、医療事故が起きた際には原因究明と責任の所在が明確に求められる。これは訴訟を起こす正当性が担保されているとも言える。

3. 法的支援の手厚さ

イギリスには法テラスに相当する「リーガルエイド(Legal Aid)」制度があり、所得の少ない市民でも弁護士を立てて訴訟を行うことができる。この制度があるからこそ、経済的理由で泣き寝入りするケースが比較的少ない。


第4章:医療ミス訴訟とNHS財政への影響

医療過誤による賠償金の支払いは、NHSの予算にとって大きな重荷となっている。報告によれば、今後30年間で想定される医療過誤関連の将来負債は約1000億ポンドを超えるとされており、その多くは出産関連の高額賠償が占めている。

この負担は新規医療機器の導入やスタッフの増員などの改善策に割ける予算を圧迫し、さらに医療の質を下げる悪循環につながっている。まさに「訴訟が制度を蝕む」状況が進行しているのである。


第5章:訴訟社会は悪なのか?

日本では「訴訟社会=モラルハザード」といった見方も根強いが、イギリスにおいては訴訟はむしろ「制度の健全性を保つための監視装置」として機能している側面がある。以下のような効果が挙げられる:

  • 医療機関に安全対策の徹底を促す
  • 被害者への適切な補償を可能にする
  • 公共サービスの質向上を目的とした議論の材料となる

ただし、過剰な訴訟が医療現場に「ディフェンシブ・メディスン(防衛医療)」を助長することも事実であり、医師の自由な判断やイノベーションを妨げるリスクもはらんでいる。


第6章:何が「正しい」のか?——倫理と現実のはざまで

医療という極めて不確実性の高い領域において、「完全な無過失」を求めることは非現実的である。にもかかわらず、制度的に「無過失であっても結果が悪ければ責任を問われる」ことがある現実は、医療者と患者双方に大きな心理的負担をもたらしている。

そのため、イギリスでは近年、「ノーフォルト補償制度(No-fault Compensation)」導入の議論もなされている。これは、過失の有無にかかわらず、一定条件のもとで被害者に補償を行う制度であり、ニュージーランドなどでは既に導入されている。この制度が実現すれば、訴訟を減らしつつも被害者救済を図るというバランスが取れる可能性がある。


おわりに:医療費無料と訴訟の共存は可能か?

「医療費無料」と「医療訴訟の増加」は矛盾する現象に見えるが、実は制度が成熟していく過程では両者が共存せざるを得ない現実がある。国民皆保険・無料制度を維持するためには、一定の制度的緊張感=監視機能が必要であり、それが訴訟という形をとるのは避けられない。

しかし、現状はそのバランスが崩れつつある。NHSの持続可能性を担保するためにも、医療過誤の防止、法的枠組みの見直し、さらには倫理的議論の深化が今後ますます重要になるだろう。


参考資料:

  • NHS Resolution Annual Reports
  • British Medical Journal (BMJ)
  • UK Parliament Health and Social Care Committee Reports
  • BBC News Health Section
  • Medical Protection Society (MPS)

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