排除という本能と、イギリスに根づく人種差別の「現在形」

2025年の今もなお、イギリス社会において人種差別は完全には消えていない。それどころか、表面上は寛容と多様性を称えながらも、深層では根強く差別的な感情が残っている場面は少なくない。警察による職務質問、メディアにおける描かれ方、就職の機会、住宅探しの難しさ、SNSでの発言…。具体的な事例を挙げれば枚挙に暇がない。

では、なぜこの国では、これほどまでに「差別」が粘着的に残り続けているのだろうか。多くの議論は「植民地時代の歴史」や「帝国主義の遺産」といった歴史的文脈に還元されがちだ。確かにそれらは見過ごせない大きな要因だ。しかし、それだけでは語り尽くせない深い問題がある。もしかすると、差別の根源はもっと根本的で、もっと生物的な本能に根ざしているのではないかという疑念がある。

■歴史だけでは説明できない「選別」

イギリスには長い植民地支配の歴史がある。大英帝国はアフリカ、アジア、カリブ海諸国に覇を唱え、現地の文化や政治を支配してきた。その過程で築かれた「白人優位」という価値観は、移民を迎え入れる21世紀に入っても形を変えて生き続けている。とりわけ黒人、アジア系、中東出身者への視線は今なお厳しい。

だが、単に「過去に差別していたから今も差別が残る」のだろうか? それではあまりに説明として浅い。むしろ、人間の根底には、自分たちのコミュニティや安全を守ろうとする「排除の本能」があるのではないか。つまり、異質な存在を本能的に警戒し、脅威とみなす傾向だ。

■進化心理学が示唆する「本能としての排他性」

進化心理学の観点からは、人間は太古の昔から「自集団」と「外集団」を区別し、後者を警戒することで生存確率を高めてきたとされる。見た目が違う、言語が違う、風習が違う…そうした要素は、かつては生死に直結するリスク要因だった。異なる部族は敵である可能性が高く、資源や安全を奪い合う対象だったからだ。

この「外集団への警戒心」は、現代社会においては非合理である。しかし、脳の構造は何万年も前から大きく変わっていない。だからこそ、多くの人は理屈では「多様性は大切」と思っていても、心の奥底では「異なるもの」への漠然とした不安を抱く。

イギリス社会で問題視される人種差別の一端には、こうした進化的背景が横たわっている可能性は否定できない。

■「危害を加えるかもしれない」という妄想の力

では、なぜその本能が現代イギリスにおいて特定の人種や民族に向けられてしまうのか。ここで鍵となるのが「危険認知」のメカニズムだ。現代人は、現実に危害を加えられた経験がなくても、メディアや噂によって「この人種は危険かもしれない」という印象を強めていく。

例えば、イスラム教徒の中にごく一部テロリストがいたというだけで、すべてのイスラム系住民が潜在的脅威とみなされることがある。黒人男性が犯罪報道で強調されると、すべての黒人が危険視される。アジア系がコロナウイルスの発生源と報じられれば、東アジア系に対する偏見が高まる。

これらは「本能」というよりは「学習」や「刷り込み」に近いが、人間の本能と結びつくことで極めて強固な偏見を形成してしまう。つまり「危害を加える可能性がある」という“妄想”が、人種差別という形で現れるのだ。

■排他性を刺激する「ポリティカル・コレクトネス」

皮肉なことに、多様性を推進する社会政策やメディアの言説も、しばしば逆効果を生んでしまう。特定の人種を「守られるべき存在」として扱うあまり、逆に「加害者側」としての多数派(多くは白人)に不満や逆差別意識を生むことがある。

「黒人だから選ばれた」「移民ばかり優遇される」「自分たちが抑圧されている」――こうした言葉はイギリスの一般市民の口からも聞こえてくる。つまり、差別撤廃を目指すはずのポリコレ的発想が、「自分たちが不当に扱われている」という感情を刺激し、新たな差別や排他意識を育ててしまうのだ。

■では、どうすればいいのか

ここまで来ると、あまりに絶望的に聞こえるかもしれない。人種差別は歴史の問題だけではなく、人間の本能とも結びついている。それならば、解決など不可能ではないか?

だが、決してそうではない。本能があるからこそ、それを抑制する「理性」や「教育」、「経験」が重要になってくる。人間は動物でありながら、文化や倫理を築き上げてきた存在だ。差別意識もまた、時間と共に変化し得る。

たとえば、実際に多様な人々と協働したり、隣人として付き合ったりすれば、先入観は容易に崩れていく。「危害を加えるかもしれない」という幻想は、現実との接触によって薄れていく。逆に言えば、分断され、互いを「見ない」状況が続けば、差別は再生産され続ける。

■理想よりも「現実的な関係」を

イギリス社会が本当に人種差別を克服するには、「みんな仲良く」という理想論よりも、「共存のためのリアルな接点作り」が求められる。学校、職場、地域社会など、異なるバックグラウンドを持つ人々が日常的に交わる場の構築が、遠回りに見えて最も有効だ。

そしてもう一つ重要なのは、「差別は本能でもある」という事実を否定しないことだ。それを認めた上で、人間がどこまで理性でそれを乗り越えられるかを問い続けること。理想を語るだけでなく、弱さも含めた人間理解に立脚する社会こそが、差別を少しずつでも減らしていけるのだと思う。

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