
序章:寿司という「外国の食べ物」の立ち位置
「寿司」と聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは、カウンターにずらりと並んだネタ、季節の魚、光り物、貝類、そして江戸前の仕事が施された味わい深い一貫一貫ではないだろうか。しかし、イギリス人にとっての「寿司」は、その印象とは大きく異なる。
イギリスの大手スーパーで販売されている寿司を見てみると、そこにあるのは「サーモン」「マグロ」「エビ」の三種類が中心。しかもエビは生ではなく、完全に火が通った茹でエビ。その他の魚介類や、コハダやアジのような光り物、貝類、卵焼き、穴子、イクラといったバリエーションはほぼ皆無だ。
なぜイギリスでは、これほどまでに寿司の種類が限定されているのか?その背景には、イギリスにおける食文化の構造的な問題が潜んでいる。
第1章:イギリスのスーパーで売られる「寿司」の実態
イギリスで「寿司」を買おうと思ったとき、多くの人が訪れるのは大手スーパーマーケットである。Marks & Spencer(M&S)、Tesco、Sainsbury’s、Waitrose、ASDAなどが主な選択肢となるが、どの店舗の「Sushi Selection」も、その内容は驚くほど似通っている。
典型的なラインナップは以下の通り:
- サーモンの握りまたはロール
- マグロ風味(実際には加工されたツナマヨであることも多い)の巻き寿司
- 茹でエビの握りまたはロール
- キュウリ巻き
- アボカドロール(時にはチキンカツロールも)
これらはすべて、イギリス人の嗜好や安全志向に基づいて設計された「食べやすい」寿司であり、言い換えれば“外国の食文化をイギリス流に加工した結果”である。日本の寿司との間には、もはや原型を留めていないほどの乖離がある。
第2章:なぜこの3種類に偏るのか? ― 食の保守性とリスク回避
イギリスの食品業界は、食の安全性に関して極めて慎重である。特に「生魚」を用いる料理に関しては、法的にも衛生的にも非常に厳しい基準が課されており、そのため寿司に使われる魚の種類は自ずと限定される。
その中で、サーモンは比較的安全で加工もしやすく、スモークサーモン文化も根付いているため抵抗が少ない。マグロは缶詰ツナで広く知られており、火を通せば安全である。エビは「茹でる」ことによって衛生的なハードルをクリアでき、視覚的にも寿司のように見える。
このように、“受け入れられる素材”のみが残り、その他の多くの魚種や調理技法は、文化的・制度的・心理的に排除されているのである。
第3章:イギリスのテレビ番組と食の情報環境
もう一つ、イギリスにおける食文化の広がりを妨げているのが、テレビやメディアによる外国料理の紹介の乏しさである。
イギリスにはたしかに料理番組は多い。BBCの『MasterChef』、Channel 4の『The Great British Bake Off』、Jamie Oliverのシリーズなどが代表的だが、これらの番組に登場する料理は、圧倒的に「ブリティッシュ」「イタリアン」「フレンチ」が中心。アジア系料理も登場はするが、しばしば「エスニック」として枠付けされ、伝統や技法の紹介というよりは、“異文化体験”としての演出が強い。
寿司に至っては、「自宅で簡単に作れるロール寿司」や「スモークサーモンで作るなんちゃって寿司」が紹介される程度で、本格的な寿司に対する理解や興味を引き出すような内容にはほとんどならない。
第4章:教育と探究心の欠如 ― 食文化への関心の薄さ
イギリスでは、食文化そのものに対する探究心が強くない層が少なからず存在する。これは教育システムや家庭での食育とも関連がある。
たとえば、イギリスの小中学校では家庭科的な授業があまり重視されておらず、「料理」=「生きるための作業」という認識が根強い。また、国としての農業・漁業資源が限られており、地元の素材にこだわる料理文化が日本ほど成熟していない。
結果として、「新しい食材」「未知の味」に対して警戒心が強く、“食に対する保守性”が常態化している。この傾向は、特に寿司のような“素材そのものの味を生かす料理”において顕著である。
第5章:なぜ「先進国」でありながら、食の理解が遅れているのか
イギリスは間違いなく経済的には先進国であり、多民族国家でありながら教育も充実している。しかし、食文化の成熟度という点では、必ずしも他の先進国に肩を並べているとは言い難い。
フランス、イタリア、スペイン、そして日本。これらの国々では、料理や食材、食事を通じて文化が伝承され、創造されている。ところがイギリスでは、「簡便性」「コスパ」「見た目の良さ」が優先され、味や伝統、背景にある文化的文脈への理解が軽視される傾向にある。
このような環境下で、寿司のように繊細で背景の深い料理が誤解されたまま定着してしまうのは、ある意味では自然な流れだと言える。
結語:イギリスの寿司は「入り口」に過ぎない
イギリスのスーパーに並ぶ寿司が、サーモン、マグロ、茹でエビだけで構成されているという事実。それは、単なるラインナップの問題ではなく、国全体の食文化に対する姿勢、食育のあり方、メディアの影響、そして消費者の意識の反映である。
だからといって、イギリスにおける寿司が全否定されるべきだというわけではない。むしろ、この「誤解された寿司」が「本物の寿司」へと関心を抱くきっかけとなる可能性もある。
大切なのは、「寿司」という料理がどのような文化背景を持ち、どのように味わわれるべきものなのかを、少しずつでも知ってもらうことだ。そこから初めて、サーモンとマグロとエビの向こう側にある、本物の寿司の世界へと一歩踏み出せるのかもしれない。
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