イギリスのメディアにおける人種報道の偏り──見落とされる被害者と増幅されるステレオタイプ

はじめに

現代社会において、メディアは単なる情報の伝達手段にとどまらず、社会的価値観や政治的議論の形成において強力な影響力を持つ。特に事件報道においては、どの事件をどのように取り上げるかという編集方針が、視聴者や読者の認知や感情、さらには政策や世論の動向にさえ影響を与える可能性がある。

イギリスにおける報道を観察すると、事件の報道において人種による明らかなバイアスが存在することが多くの調査や市民の声から指摘されている。特に、アジア系や黒人の被害者が関与する事件が過小に扱われ、逆に加害者として関与した場合には過度にセンセーショナルに報道される傾向が顕著である。このような報道の偏りは、当該コミュニティに対する根深い偏見や構造的な差別を助長し、社会的分断の火種ともなっている。

本稿では、アジア系および黒人の被害者が報道の中でどのように扱われているのか、逆に白人の被害者がどのような位置づけをされているのかを実例とともに分析し、メディアの構造的課題に切り込む。そして、報道の公平性を確保するための具体的な提言を行いたい。


アジア系被害者:沈黙の中に葬られる声

アジア系イギリス人が被害者となる事件は、メディアで取り上げられることが極めて稀である。例えば、2021年にロンドンで起きたアジア系留学生への暴行事件は、監視カメラの映像がソーシャルメディア上で拡散されたことを受けて一部メディアが報道したが、それ以前は完全に黙殺されていた。

このような対応の背景には、いくつかの構造的要因がある。まず、アジア系市民は「模範的少数民族(Model Minority)」としてのステレオタイプを押し付けられており、「声を上げず、従順で、自己責任で問題を解決する」存在と見なされがちである。このイメージは、彼らが被害者であっても「注目に値しない」とされる要因となっている。

さらに深刻なのは、アジア系が加害者であると報道された際のバランスの崩れである。特に、パキスタン系の一部青年による性的搾取事件(例:ロザラム事件)では、加害者の人種や宗教的背景が強調され、あたかもアジア系コミュニティ全体に問題があるかのような論調が広がった。事件そのものの深刻さは否定しようがないが、その報道の仕方には過剰な一般化と文化的偏見が含まれていた。


黒人被害者:過去の「過ち」による人間性の剥奪

黒人の若者が暴力の被害者となる事件では、報道においてその被害者の「過去」が強調される傾向がある。これは、アメリカにおける黒人男性の報道と同様の構造がイギリスにも存在することを示している。

たとえば、2019年にロンドン南部で刺殺された黒人少年に関する報道では、事件の残虐性よりも彼が過去に友人とSNSで暴力的な言葉を使っていたことが主に取り上げられた。被害者の人格を「完全無欠」でないことにより相殺しようとするこのような報道は、実質的に「自己責任論」を助長し、被害そのものの深刻さを薄めてしまう。

また、「ギャング文化」や「ナイフ犯罪」といった文脈の中に黒人被害者を配置することで、あたかも彼らが「暴力と隣り合わせの存在」であるかのようなイメージが定着してしまう。実際には黒人被害者の多くは何の関係もない一般市民であるにもかかわらず、報道によって彼らの人間性が無視される構造が繰り返されている。


白人被害者:共感を呼ぶ「物語化」の構造

一方、白人の被害者が関与する事件においては、報道のトーンが大きく異なる。彼らの事件は即座に全国ニュースとなり、被害者の生前の写真、家族や友人のコメント、地域社会の追悼などを通して「共感の物語」が構築される。

たとえば、2021年のサラ・エバラードさんの誘拐・殺害事件はその典型である。被害者が白人女性であったこと、加害者が警察官であったという要因が加わり、事件は全国的な議論へと発展した。街頭での追悼集会が広がり、メディアは彼女の人生や人柄を丹念に掘り下げ、「失われた未来」への共感を強調した。

これは決して不当な扱いではないが、同様の扱いが他人種の被害者にも適用されていないことが、報道の公平性に重大な疑念を抱かせる。


なぜ報道に偏りが生まれるのか──メディア構造の問題点

こうした報道の偏りには、いくつかの構造的原因がある。第一に、ニュース編集部の人種的多様性の欠如がある。2020年の「Race and Media」レポートによれば、イギリスの主要ニュースルームにおける編集職の約94%が白人であり、アジア系や黒人のジャーナリストは極めて少数である。

この構造的偏りにより、「誰が被害者として報道に値するのか」という判断が、無意識のうちに白人中心の価値観によってなされてしまうのだ。

第二に、視聴率やクリック数を重視する商業的圧力もある。メディアは「関心を引く物語」として、視聴者にとって「親近感のある(=白人の)被害者」を選びやすく、他人種の被害者はしばしばその共感圏の外に置かれてしまう。


改善への道──公平な報道に向けて

このような構造的問題に対しては、いくつかの具体的な対応が考えられる。

  1. 編集部門の多様性の確保
     人種・民族的背景が異なるジャーナリストの登用は、報道の視点を広げる鍵となる。多様な経験を持つ記者がいることで、これまで見落とされてきた事件や視点が浮上する可能性が高まる。
  2. 公平な報道ガイドラインの策定と遵守
     被害者報道においては、人物像の描写や事件の背景の扱いについて、ガイドラインを設けることで、偏見的なフレーミングを抑制できる。
  3. 読者・視聴者のメディアリテラシー向上
     報道におけるバイアスを識別し、それに対する疑問を持つ力は市民社会にとって不可欠である。教育現場やメディア自体が啓発に努める必要がある。

結論:見えない被害者の「可視化」をめざして

イギリスのメディアにおける人種に基づく報道の偏りは、一朝一夕に解決される問題ではない。だが、それを「無意識の過ち」として放置することは、構造的な人種差別の再生産に加担することを意味する。

アジア系や黒人の被害者が、その人間性や物語を奪われたまま報道の片隅に追いやられる現状は、報道機関の倫理と責任において深刻な課題である。すべての人種・民族が平等に報道され、共感される社会。それこそが、公正な民主主義の土台であるべきだ。

メディアは単なる鏡ではない。社会の一部であり、未来を形作る力を持つ存在である。その責任を果たすために、まずは「誰の物語が語られていないか」に目を向けるところから始める必要がある。

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