ルーシー・レットビー事件と報道の“笑顔”:メディアに潜む人種バイアスを考える

ルーシー・レットビー事件についての詳細

2023年、イギリス・チェスター病院に勤務していた看護師、ルーシー・レットビーが、新生児の複数殺害に関与したとして有罪判決を受けたこの事件は、医療従事者による極めて凶悪な犯罪として世界中に衝撃を与えました。

しかし、この事件と同時に、ある奇妙で不快な「違和感」が報道の中に残りました。それは――
なぜ彼女の「笑顔の写真」がニュースで何度も繰り返し使われているのか?
そして、もし彼女が黒人だったら、同じ扱いをされていただろうか?という疑問です。


◆ 連続殺人犯なのに“笑顔”? 報道が描いた「優しい看護師」

私たちは、凶悪な殺人事件の犯人が報道されるとき、どんな写真が使われるかに注目する必要があります。
通常、他人の命を奪った容疑者の報道には、暗く、厳しい表情の写真が使われ、時には“犯罪者らしさ”を誇張する演出すら見受けられます。

ところが、ルーシー・レットビーの場合、主要メディア――BBC、Daily Mail、The Guardian、Sky News などは、彼女が笑顔で写るプライベート写真や、若く、清潔感がある看護師としての肖像を繰り返し用いました。

その結果、視聴者や読者の多くが潜在的に受け取る印象は、「こんな普通の女性がまさか…?」という“無垢さへの同情”です。
このようなイメージ戦略は、意図的でなくとも、感情的なバイアスを引き起こしやすいという問題を孕んでいます。


◆ メディアの選ぶ“顔”に潜むメッセージ

報道機関が使う画像は中立ではありません。選ばれる写真1枚で、人の印象は大きく変わります。
心理学では、「写真効果」として知られ、明るい笑顔の写真は信頼性や親しみやすさを増すことが知られています。

それゆえに、凶悪犯罪の容疑者に「笑顔の写真」を繰り返し使用することは、間接的にその人物を“人間的に感じさせる”効果を持つのです。

ここで私たちは次の問いに直面します。

もしルーシー・レットビーが黒人女性だったら?
メディアは同じように彼女の笑顔を見せ続けていただろうか?

多くの人がこの問いに対して直感的に「否」と答えるでしょう。


◆ 黒人容疑者と報道:厳しい現実

人種と報道姿勢の違いに関する研究は数多く存在します。特にアメリカやイギリスでは、黒人やアジア系、中東系の容疑者は、より“犯罪者らしい”イメージで描かれる傾向があることが複数のメディア研究で示されています。

たとえば:

  • 黒人容疑者の写真には、マグショット(逮捕時の写真)が使われやすい。
  • 無表情、怒った顔、帽子やパーカーなど、“危険”を想起させる要素が強調されがち。
  • 一方で白人の容疑者には、学生時代の写真や、家族と過ごす写真など“日常”の顔が多く使われます。

これは偶然ではなく、構造的な人種バイアス(systemic bias)の表れです。


◆ 社会は“白人無垢説”を暗に再生産していないか?

ルーシー・レットビーの報道には、「どうしても彼女が犯人とは思えない」「彼女は“いい子”だった」というナラティブが繰り返されました。これは、彼女の人種的・社会的背景(白人、中産階級、看護師という“尊敬される職業”)と深く関係しています。

一方で、黒人や移民の容疑者の場合、逆の印象が強調されるケースもあります。
すなわち、犯罪の背景に“家庭環境の不全”や“文化的な暴力性”があるかのように語られることさえあるのです。

これは言い換えれば、社会が“白人=個人の問題”“非白人=文化・人種の問題”という危険な二重基準を内包している証拠ではないでしょうか。


◆ 知らぬ間に「刷り込まれる」イメージ

人は、繰り返し目にする情報に影響を受けます。とりわけ、報道の「イメージ選定」は、意識の深層にメッセージを送り込みます。

・白人の容疑者 → 笑顔、家族思い、悲劇的な過去もある“被害者性”
・非白人の容疑者 → 無表情、怒り、暴力性、“加害者性”の強調

こうしたイメージが繰り返されることは、社会に次のような印象を根づかせてしまう可能性があります:

「白人は本来善で、例外的に過ちを犯す」
「非白人は潜在的に危険で、過ちを犯すのは“当然”」

これは、意識的な洗脳ではないにせよ、“無意識の社会的刷り込み”として作用してしまうのです。


◆ わたしたちは、報道に何を求めるべきか?

報道は真実を伝える手段であると同時に、社会の“空気”を作り出す存在でもあります。

だからこそ、以下のような問いかけが今、強く求められています。

  • なぜ同じ犯罪を犯したのに、容疑者の“顔”の見せ方が違うのか?
  • その違いが、誰のどんな感情に作用しているのか?
  • それは公平なのか?無意識に誰かを傷つけていないか?

◆ おわりに:報道とわたしたちの責任

ルーシー・レットビーの犯した罪は重大です。そして、それを伝えるメディアが、「彼女の人間性」をどう描くかは、単なる写真の選択以上の意味を持ちます。

もし、笑顔の写真が「衝撃とのギャップを演出する意図」だったとしても、それが特定の人種にだけ許容されているなら――
それは私たち全体が「人種によって正義の形を変えている」ことを意味します。

報道のバイアスを見抜く目を、私たちは今こそ持つべきです。
真に公平な社会を望むなら、まずはその“不公平な日常”に気づくことから始めなければなりません。

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