
イギリスの料理と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは「ロースト」や「グリル」など、長時間高温で火を通す調理法ではないだろうか。実際、ローストビーフやシェパーズパイ、サンデーローストなど、イギリスの伝統的な家庭料理の多くは、肉や魚にしっかり火を通すことを前提としている。加えて、衛生観念の強い現代イギリス人の多くは、「焼きすぎなくらい焼く」のが安心、という意識すら持っている。
では、そんな“焼き文化”のイギリスでも、食中毒は起きるのだろうか?答えはYes。意外にも、イギリスでも毎年数十万件の食中毒が発生しており、なかでも夏場にはその数が顕著に増加する傾向がある。本稿では、イギリスにおける食中毒の実態と原因、特に夏に増える背景について詳しく見ていきたい。
イギリスでの食中毒、年間の発生件数は?
イギリス政府機関「食品基準庁(Food Standards Agency, FSA)」によると、イギリスでは年間約270,000件以上の食中毒が報告されている。ただし、これは報告された件数に限った話であり、実際にはこの数倍以上の人々が何らかの食中毒を経験していると見られている。
特に多くの人々に影響を与えるのが、カンピロバクター(Campylobacter)、サルモネラ(Salmonella)、リステリア(Listeria)、大腸菌O157(E. coli O157)、そして**ノロウイルス(Norovirus)**といった原因菌だ。日本でもおなじみのこれらの細菌・ウイルスだが、イギリスにおいても主要な病原体であることに変わりはない。
高温調理でも防げない?意外な感染ルート
「肉をしっかり焼いていれば安全なのでは?」と思われるかもしれないが、実は問題は“火の通し方”だけではない。たとえば、以下のような場面でも食中毒の原因となる。
1. 交差汚染
生肉を調理した際に使ったまな板やナイフを、加熱済みの食材やサラダに使ってしまうことで、菌が移る「交差汚染」。特にキャンピロバクターは、鶏肉の表面に高確率で付着しており、少量の菌でも感染が成立するため非常に危険だ。
2. 低温保存の失敗
イギリスの家庭用冷蔵庫は、一昔前まで温度管理がやや不安定なものも多く、食材の保管が不十分になるケースがある。また、夏場は食品が常温にさらされる時間が長くなりがちで、バクテリアの増殖リスクが高まる。
3. 外食・テイクアウェイ(持ち帰り)
イギリスではパブやテイクアウェイ(テイクアウト)文化が浸透しており、特に夏場には外での食事が増える。バーベキューやピクニックでは、屋外での調理と保存が不十分になりがちで、食中毒の温床になりうる。
夏に食中毒が増える理由
イギリスでも、他の国と同様に食中毒は夏場に増加する。その理由は以下のような点にある。
● 気温上昇による菌の増殖促進
細菌の多くは20〜40度の環境で最も活発に繁殖する。イギリスの夏は日本ほど湿度が高くないとはいえ、20度を超える日が続くと、食材に付着した菌が急激に増殖する可能性がある。
● 野外イベント・バーベキューの増加
天候の良い夏は、イギリス人にとってアウトドアシーズンの到来。バーベキューは国民的な夏のレジャーであり、半生のハンバーガーやソーセージ、適当な保存状態のポテトサラダなど、リスクの高い食品が目白押しになる。
● 冷蔵保存・衛生環境の不備
外での活動が増えることで、食材が常温にさらされる時間が長くなり、またキャンプ場などでは手洗い設備が整っていないことも多い。これが二次感染や交差汚染につながる。
実際に多い食中毒の原因菌
FSAの調査に基づく、イギリスにおける代表的な食中毒の病原体は以下の通り:
◆ カンピロバクター(Campylobacter)
- 原因:主に鶏肉。十分に火が通っていない鶏肉や、調理器具の交差汚染。
- 症状:腹痛、下痢、発熱。重症例ではギラン・バレー症候群などの合併症も。
◆ サルモネラ(Salmonella)
- 原因:卵、生の肉、乳製品など。テイクアウェイや外食による感染も。
- 症状:発熱、吐き気、下痢。
◆ リステリア(Listeria)
- 原因:低温でも繁殖するため、冷蔵食品でも注意が必要。チーズ、パテ、冷製肉類など。
- 症状:高齢者や妊婦では重篤化の可能性。敗血症や髄膜炎を引き起こすことも。
◆ ノロウイルス(Norovirus)
- 原因:汚染された食品や水、または人から人への感染。
- 症状:嘔吐、下痢、発熱。冬場にピークがあるが、夏にも見られる。
イギリス政府・市民の対応と対策
食品基準庁(FSA)では、「4つのC(clean, cook, chill, cross-contamination)」を掲げ、食中毒予防を呼びかけている。
- Clean(清潔):手洗い、器具の洗浄を徹底
- Cook(加熱):中心温度75度以上での調理を推奨
- Chill(冷却):食品は5度以下で保存、常温放置は避ける
- Cross-contamination(交差汚染防止):生肉と他の食品の接触を避ける
また、多くのスーパーでは鶏肉パックに「洗うな」と明記されている。これは洗うことでシンクや調理台に菌を飛散させてしまうリスクがあるためだ。
イギリスにおける今後の課題
食中毒対策の啓発は進んできたが、以下のような課題が残されている。
- 移民・観光客への情報伝達:英語圏以外からの訪問者に対する衛生ガイドの浸透が不十分。
- 気候変動によるリスクの変化:イギリスでも近年、気温上昇や集中豪雨の影響で衛生環境が悪化するケースが報告されている。
- 外食産業の品質管理:テイクアウェイの普及と比例して、衛生管理への監督がより重要となっている。
おわりに:イギリスでも「油断禁物」な食中毒
「何でも焼きすぎる」国、イギリスでも、食中毒のリスクは決して低くはない。火を通す調理法が多くても、食材の保存、調理器具の扱い、衛生習慣といった“見えない要素”がリスクの根本にある。特に夏場は、開放的な気分とともに衛生意識が緩みやすい時期だ。
旅行者であっても現地の食に触れる機会は多く、テイクアウェイやパブ飯を楽しむのは醍醐味の一つ。ただしその裏には、見えないリスクが潜んでいることを知っておくことで、「食の安全」と「旅の楽しさ」を両立できるだろう。
安全な食生活は、国境を越えて重要なテーマである。
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