「食洗器がない家には住みたくない」──イギリスのインド人コミュニティにおける家事観の変容と矛盾

近年、イギリスでは食洗器(ディッシュウォッシャー)の普及が急速に進んでいる。とくにここ10年ほどで、キッチンに食洗器が備えられていることが、ごく普通の家庭像として定着しつつある。かつては贅沢品の扱いだったこの家電製品が、都市部の新築住宅ではほぼ標準装備になっていることからも、その一般化の流れは明らかだ。

しかし興味深いのは、イギリスにおけるこの食洗器の普及が、ある特定のコミュニティによって強く支持され、むしろ「食洗器がない家には住みたくない」とまで言われるケースが散見されることだ。そのコミュニティとは、在英インド人たちである。

彼らの中には、住宅を探す際や賃貸物件を選ぶ際に、食洗器の有無を重視する人が多い。あるロンドンの不動産エージェントはこう語る。

「インド系のお客様の多くは、食洗器の有無を確認してきます。とくに若い世代や共働きのカップルでは、“食洗器がなければ無理”とはっきりおっしゃる方もいます」

だが、ここでふと疑問が湧く。インド本国では、今もなお多くの家庭で食器は手洗いされており、食洗器の普及率は極めて低いのが現実である。にもかかわらず、なぜ在英インド人にとって食洗器がそれほど重要なのか。その背景には、文化的な価値観の変化、労働観、そして移民コミュニティならではの生活戦略が絡み合っている。

インド本国では「食洗器」はまだ贅沢品

まず確認しておきたいのは、インドにおける食洗器の普及率だ。インドの家電市場では、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品が中間層に広く行き渡った今も、食洗器の普及は限定的だ。2020年の段階での統計によると、インドにおける家庭用食洗器の普及率は全世帯の1%未満とされている。

主な理由は以下のとおりである:

  • 家事労働の外注化:インドでは今も都市部を中心に、家庭内の清掃や炊事、皿洗いといった家事労働を安価な労働力に依存している。つまり、家に住み込みや通いの「メイド(Domestic Help)」がいるため、そもそも自分で皿を洗う必要がない。
  • 文化的な食習慣:インド料理では多くの油分やスパイスが使われ、調理器具も種類が多く、形状も複雑だ。例えばタワ(平たい鉄板)、カダイ(深鍋)、ティフィンボックスなど、一般的な食洗器のトレイでは効率的に洗浄できないことが多い。
  • 水の供給事情:水圧の安定しない地域や硬水の多い地域では、食洗器が正常に作動しない、またはメンテナンスが煩雑になるケースが多い。

以上から、インド本国では、食洗器は実用性よりも“贅沢品”としてのイメージが強く、それゆえ生活必需品にはなり得ていない。

イギリスに渡ったインド人たちの生活スタイルの変化

では、イギリスに住むインド人たちがなぜここまで食洗器を重視するのか。その答えは、インド本国の文化とはむしろ逆方向に進む、生活の西洋化と家事労働の内製化にある。

イギリスにおけるインド系住民は、2021年の国勢調査によれば約170万人を超える。彼らの中には、1970年代以降の移民第1世代と、その子孫として育った第2、第3世代が含まれる。とくに後者においては、イギリス社会の教育を受け、西洋的なライフスタイルを取り入れながらも、インド的な家族観や食文化を維持しようとする傾向が見られる。

ここで重要なのは、「料理はインド流、家事はイギリス流」というミックススタイルが生まれている点だ。インド系家庭では依然として本格的なインド料理が日常的に調理されるが、その洗い物の量や手間は非常に多い。一方で、イギリスでは家事代行サービスや住み込みメイドのような文化は存在せず、すべて自力でこなす必要がある。

つまり、**「インド料理を作りたいけれど、インドのように他人に皿を洗ってもらうわけにはいかない」**というジレンマが存在するのだ。

その解決策が「食洗器」である。これはまさに、食文化と労働文化の狭間に立たされた移民コミュニティが選んだ最適解といえる。

女性の社会進出と家電依存

もう一つの要因は、インド系女性の社会進出だ。移民2世・3世として育った女性たちは、イギリスの教育制度のもとで育ち、多くが高等教育を受け、専門職に就いている。共働き家庭が多くなる中で、従来の「女性がすべての家事を担う」という構図はもはや現実的ではなくなっている。

ある在英インド人女性はこう話す。

「うちは毎晩ちゃんとインド料理を作ります。でも仕事から帰ってきて、さらに鍋を10個洗うのは本当に無理。食洗器は絶対に必要です。なかったら引っ越しますね」

このように、家事の効率化=食洗器の導入という図式が、インド系家庭において極めて現実的な要求になっている。

価値観の変容:「清潔」の再定義

さらに興味深いのは、食洗器の利用が「衛生観念」の面でも受け入れられている点だ。インドでは、食器を手で洗うことが「一番清潔」と考える人が多いが、イギリスでは高温で殺菌洗浄する食洗器の方がむしろ清潔という認識が強い。

特にパンデミック以降、衛生への意識が高まったこともあり、食洗器による「熱殺菌」が安心材料となっている。

賃貸市場への影響

こうした傾向は、イギリスの賃貸市場にも変化をもたらしている。不動産業者の中には、特定エリア──たとえばロンドン西部のサウスホールやハウンズローなど、インド系住民の多い地域では、「食洗器付き物件」がすぐに借り手が見つかるという現象が起きている。

投資用物件を扱うオーナーの中には、「インド系テナント向けには必ず食洗器を設置する」という方針をとる者もいる。これは単に利便性の問題だけではなく、文化的な期待値として、食洗器が「標準装備」化している証左だ。

結論:「矛盾」ではなく「適応」

一見すると、「インドでは普及していないのに、イギリスのインド人が食洗器にこだわる」という現象は、矛盾しているようにも見える。しかし実際には、これは環境に応じた文化的適応なのだ。

  • 手洗い文化が根強いインドでは不要
  • 自力で家事をこなす必要があるイギリスでは必需品

つまり、インド人コミュニティは「食器洗い」という日常の行為に対して、場所と文脈に応じた柔軟な価値観のシフトを行っているのである。

そしてその適応の中で、食洗器は単なる家電を超え、生活の快適性や自立性、さらには家族の幸福感を支える象徴的存在となっているのかもしれない。

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