リフォームUKと北東イングランドの政治地形――なぜ極右ポピュリズムがこの地に根を張るのか

序章:リフォームUKの台頭 2020年代のイギリス政治において、「リフォームUK」(Reform UK)の登場は、EU離脱後の保守層の再編と、ポピュリズムの波の中で象徴的な現象のひとつである。リフォームUKはナイジェル・ファラージの政治的な遺産を引き継ぐ形でBrexit Partyから改称された政党であり、移民規制、国家主義、保守的経済政策などを旗印に支持を拡大している。 興味深いのは、リフォームUKが特にイングランド北東部を含む産業衰退地域に強い影響力を持ち始めていることである。なぜこの地域がリフォームUKの足場となっているのか、その背景には多層的な社会経済的要因と政治的戦略が存在している。 第1章:イングランド北東部の社会的文脈 イングランド北東部は、20世紀の大部分を通して重工業を基盤とした経済構造を持っていた。造船業、炭鉱業、鉄鋼業といった産業が地域の雇用を支えていたが、サッチャー政権期の構造改革によってそれらは急速に衰退し、多くの地域が経済的に取り残された。 現在では、北東部の多くのコミュニティにおいて失業率は全国平均を上回り、生活保護受給者の割合も高く、大学進学率はロンドンや南東部に比べて著しく低い。教育や雇用の機会が限られている中で、社会的疎外感が広がっているのが実情である。 このような背景は、ポピュリズム的政治運動が台頭する土壌として非常に肥沃である。経済的に苦しい立場にある人々にとって、「エリート」や「外国人」をスケープゴートとする言説は、自身の不満や不安を言語化する手段として機能することがある。 第2章:人種的均質性と政治的戦略 北東部がリフォームUKの活動拠点として適しているとされるもう一つの理由は、人種的・文化的に比較的均質である点である。2021年の国勢調査によれば、ロンドンでは住民の約40%が非白人系であるのに対し、北東部ではその割合は5%以下である地域も多い。 多様性が少ない地域では、「移民による脅威」というナラティブが現実に直面することなく、ステレオタイプ的なイメージに基づいて構築されやすい。つまり、「外国人に仕事を奪われている」といった言説が、実際に外国人労働者と接点のない人々にこそ強く浸透する可能性がある。 これは、「移民アレルギー」が必ずしも多民族社会で発生するわけではなく、むしろ人種的に均質な環境において、想像上の「他者」としての移民が恐怖の対象となることを示唆している。 第3章:ロンドンとの対比――多様性とリベラリズム リフォームUKがロンドンで勢力を伸ばせない理由は明白である。ロンドンは世界でも最も多様な都市のひとつであり、人種、宗教、文化、言語が日常的に混在する社会である。多文化主義が現実として存在し、移民が地域社会や経済において積極的な役割を果たしているため、排外的言説は説得力を持ちにくい。 また、ロンドンには高い教育水準と情報アクセス環境が整っている。フェイクニュースや陰謀論といった情報が流布しても、それに対抗するリテラシーを備えた市民が多く存在する。リフォームUKの主張は、このような都市部では「共鳴」する余地が限られており、むしろ反発を受けやすい。 第4章:情報戦と「洗脳」のメカニズム ポピュリズム政党は「洗脳」という言葉が指すような露骨なプロパガンダを行うわけではない。しかし、彼らの言説には明確な「エモーショナル・ロジック(感情論理)」が存在する。恐怖、不安、怒り、郷愁といった感情に訴えることで、合理的な判断よりも感情的な反応を引き出す戦略が取られている。 SNSの活用や地域メディアへの影響も、このプロセスを後押ししている。情報リテラシーが高くない地域においては、誤情報や偏った情報が検証されることなく拡散され、それが住民の政治的判断を形成する要素となる。 第5章:民主主義の課題としてのポピュリズム リフォームUKの台頭を単なる「洗脳」や「無知」として片付けるのは危険である。むしろ、そうした言説が支持を得るという現象こそが、民主主義社会の不均衡や構造的な格差の存在を示している。 北東部の有権者たちは、過去数十年にわたって既成政党から見捨てられたと感じてきた。その空白を埋める形で登場したのがリフォームUKであり、彼らは「聞く耳を持つ唯一の存在」として歓迎されたのである。 結論:地域間格差と政治の断絶をどう埋めるか もしリフォームUKがロンドンを拠点とした活動を行っていたとすれば、ここまでの影響力は得られなかっただろう。しかし、逆に言えば、イングランド北東部のような地域でなぜそのような運動が受け入れられるのかを真剣に考えなければ、分断はさらに深まるばかりである。 地域格差を是正し、教育、雇用、福祉における平等な機会を保証すること。多様性を受け入れるリテラシーを全国的に育てていくこと。ポピュリズムへの対抗は、単なる「反論」ではなく、「包摂」によって行われなければならない。

ハリー王子のアメリカ移住が浮き彫りにしたイギリスの人種差別構造 〜王室という“聖域”の裏に潜む不寛容の実態〜

2020年、ハリー王子とメーガン妃がイギリス王室の主要メンバーとしての役割を退き、北米に移住するという決断は、世界中に大きな衝撃を与えた。かつて「ロイヤル・ウェディング」と称され国際的な祝福を受けた二人が、なぜ王室という立場を捨ててまで英国を離れたのか。この決断の裏には、英国社会に根強く存在する人種差別、メディアによるバッシング、王室内部の冷淡な対応、そして家族と未来を守るための自己決定があった。 これは単なる「有名人の移住」や「家族の決断」ではない。むしろ、イギリスという国の制度的差別と、それに対する個人の抵抗と選択の物語である。そしてその中でも、メーガン妃というアフリカ系アメリカ人女性の存在が、英国社会の抑圧的な構造を如実に浮かび上がらせる象徴となった。 人種差別的報道と英国メディアの執拗なバッシング メーガン妃が王室入りして以来、英国メディアの報道姿勢は明らかに異様だった。比較対象として頻繁に取り上げられたのがキャサリン妃(ケイト・ミドルトン)である。例えば、キャサリン妃がアボカドを好むという記事では「健康的」と賞賛された一方で、メーガン妃がアボカドを好むと「人道危機を助長する果物」と糾弾された。こうしたダブルスタンダードが多くの場面で見られた。 最も問題視されたのは、メーガン妃の「肌の色」に関わる報道や発言である。英タブロイド紙は、彼女の出自に対する偏見を前提とした見出しや記事を連発し、一部の王室関係者からも「生まれてくる子どもの肌の色がどれくらい濃いのか」という発言があったとされている。これは明白な人種差別であり、王室という国家の象徴的存在がこのような無意識的偏見に染まっていることを世界に知らしめた。 ハリー王子自身も、BBCなど英国メディアが「暗黙のうちに」メーガン妃を標的にし、彼女の人格や家庭背景、文化的ルーツを攻撃していたと強く批判している。とりわけタブロイド紙『デイリー・メール』のようなメディアは、批判ではなく中傷としか呼べないような記事を連日掲載し、メーガン妃の精神的健康を蝕んでいった。 王室内部の沈黙と支援の欠如 このような報道に対して、王室はほとんど声を上げなかった。歴史的に英国王室は「政治的中立」と「沈黙の伝統」を重んじてきた。しかし、明確な人種差別が行われている状況においてすら沈黙を守るという選択は、逆に加担と受け取られても仕方ないだろう。 メーガン妃は後に、精神的に追い詰められ「死を考えるほどだった」とまで述べている。彼女は王室内に助けを求めたが、その要請は無視され、制度的サポートもほぼ皆無だった。つまり、個人の尊厳や精神的ケアよりも、「王室のイメージ」や「伝統」が優先されたということである。 ハリー王子はこのような状況を「母・ダイアナ妃の悲劇を繰り返したくなかった」と語っている。メディアに追い詰められ、支援を受けられず孤独の中で亡くなったダイアナ妃の影が、メーガン妃の姿に重なったのだろう。 家族の安全とプライバシーの確保 王室を離れたもう一つの大きな理由は、家族の「安全」と「プライバシー」を守るためだった。王室メンバーとしての義務を果たす一方で、子どもを持つ親として、日常生活さえも脅かされる状況は耐えがたいものであった。 特に第一子・アーチーくんの誕生後、夫妻は子どもに対してもメディアが過剰な関心を寄せること、そして王室内部での人種に関する発言などがあったことを受けて、これ以上この環境で家族を守ることはできないと判断した。 プライバシーと尊厳を取り戻すために、アメリカ・カリフォルニア州への移住を決断。ハリウッドセレブのように、パパラッチと隣り合わせの生活ではあるものの、自らの意思でコントロールできる環境を選ぶことで、彼らは初めて「人間らしい生活」を手に入れたと言える。 経済的自立と新しいアイデンティティの追求 王室からの支援を断ち、自らの力で生計を立てるという選択も、彼らの移住を特別なものにしている。これは単なる「逃避」ではなく、「再生」と「挑戦」である。彼らはNetflixやSpotifyとの契約、アーチウェル財団の設立など、自らの理念と経験を元にしたプロジェクトを次々に立ち上げている。 この動きは、英国王室という「生まれによって役割が定められる」社会構造に対するアンチテーゼでもある。特権階級であっても、自らの価値を定義し直し、新たな人生を切り拓くことは可能であるというメッセージを、多くの若者に示したと言える。 ハリーとメーガンが突きつけた“イギリスの真実” 二人の決断が世界中で注目されたのは、それが英国社会に根深く残る構造的差別と、王室という「最後の聖域」の変革の必要性を突きつけたからに他ならない。とりわけ、イギリスという国家が、21世紀においても未だに「肌の色」「出自」「家柄」といったフィルターで人を判断している現実を、王室という最も象徴的な場所から暴露されたのだ。 かつては「大英帝国」の中心だった英国。その影響力や文化的価値は今も健在であるが、国内における多様性への理解や対応は、未だ発展途上である。ハリー王子とメーガン妃のアメリカ移住は、単なる家族の選択ではなく、「制度の限界」と「文化の課題」を世界に向けて可視化した歴史的出来事と言えるだろう。 結語:沈黙に抗い、声を上げた意味 「私たちは沈黙の中で生きることを望まない。自らの声で物語を語りたい。」 ハリーとメーガンが何度も口にしてきたこの言葉は、今の時代における自由と尊厳の本質を突いている。彼らが去ったことで英国王室が何を失ったのかではなく、彼らが得たもの――それは、声を奪われた人々の代弁者としての存在価値かもしれない。 もし、王室という制度がこれからも続いていくのであれば、そしてイギリスという国家が真に多様性を受け入れた社会を目指すのであれば、彼らが発した“告発”の声に耳を傾け、変革の契機とすることが求められている。

イギリス人にとってアジア人とは誰なのか? ― 文化と味覚の境界線を問う

はじめに:この問いが浮かぶ背景 「イギリス人には日本人と中国人の区別がついているのか?」という問いは、単なるルックスの識別能力を問うだけのものではない。そこには文化的理解、歴史的背景、ステレオタイプ、そして国際社会の中での認識のズレといった、より深層的な要素が関わっている。さらに、「イギリスで食べる中華料理の方が中国で食べる中華料理より美味しい」と語るイギリス人の言葉には、食文化への理解や味覚の多様性、そしてある種の植民地主義的な態度さえも見え隠れする。 本稿では、この2つの問いを軸に、イギリス社会におけるアジア人の認識、文化的アイデンティティ、そして食文化の輸出入のあり方を紐解いていきたい。 第一章:イギリス人は日本人と中国人を区別できるのか? 表面的な混同:アジア人=中国人? まずは率直に言ってしまおう。多くのイギリス人(とりわけアジア諸国に深い関心がない層)は、日本人・中国人・韓国人といった東アジア人を見分けるのが難しいと感じている。これは、視覚的な類似点に加え、言語、文化、歴史に対する知識が乏しいことが大きな原因だ。 たとえば、ロンドンの街中で「Where are you from? China?」と聞かれる経験をした日本人は少なくない。これは決して悪意から来る質問ではないが、無意識のうちに「アジア人=中国人」という認識が根強く存在していることを示している。 知識層とマス層の違い しかし一方で、教育水準が高い人や日本文化に興味を持つ層、たとえばアニメや日本食に親しんでいる若者の間では、日本と中国の違いを理解している人も確実に存在する。イギリスの大学では東アジア研究が盛んであり、日本語を学ぶ学生も一定数いる。 つまり、「区別がつくかどうか」はイギリス人全体に対して一括りに語れる問題ではなく、知識や関心の度合いによって大きく差がある。むしろ、アジア人全体を単一のカテゴリで見る傾向こそが、より根深い課題と言える。 第二章:文化の“再構築”としての中華料理 英国式中華料理とは何か イギリスで中華料理を食べたことがある人は分かるだろうが、それは中国で食べる本場の中華料理とは大きく異なる。「Sweet and Sour Chicken(酢豚風の甘酸っぱいチキン)」「Crispy Aromatic Duck(北京ダック風のローストダック)」など、イギリス式中華料理は、ローカライズ(現地化)された料理であり、厳密には「中国料理の英国解釈版」と言うべきものである。 味覚の相対性と「うまい」の基準 ここで面白いのは、ある種のイギリス人が「イギリスの中華料理の方が、中国の中華料理よりうまい」と平然と言うことだ。これは決して誇張ではない。彼らにとって「うまい」とは、「慣れ親しんだ味」「胃に優しい味」「馴染みのある食材」を意味することが多い。つまり、彼らの言う「うまい」は、必ずしも料理の本来の品質や伝統的な技術とは関係がないのだ。 たとえば、本場の四川料理のような、唐辛子や花椒の刺激が強い料理は、イギリス人にとっては「too spicy(辛すぎる)」とされ、むしろ食べにくいと感じられる。これに対して、砂糖やケチャップ、醤油を多用した英国式チャイニーズの方が「うまい」と評価されてしまう。 第三章:味覚の植民地主義? 「改良」という名の暴力 イギリスにおける中華料理は、しばしば「イギリス人向けに改良された」ものとして語られる。この“改良”という言葉には、どこか無意識の優越感が見え隠れする。「本場の料理は野蛮で粗野だが、我々が手を加えることで洗練された」という構図である。 これは、かつてイギリスが多くの植民地で現地文化を「文明化」しようとした姿勢とどこか通じるものがある。つまり、食文化のローカライズには、単なる味の調整以上の意味があるのだ。 「文化の輸入」か「文化の消費」か イギリスにおいて中華料理は、もはや一種のポップカルチャーである。スーパーマーケットではレディメイドのチャーハンやスイートチリソースが並び、パブでも「チャイニーズ・ナイト」が開催される。この状況は、文化の“輸入”というよりも“消費”であり、深い理解というよりは、表層的な娯楽としての消費に近い。 第四章:日本食の扱われ方との対比 なぜ日本食は「洗練」とされるのか? 中華料理に比べ、日本食(とくに寿司やラーメン)はイギリスで「ヘルシー」「クリーン」「洗練された」というイメージで扱われることが多い。これは日本のソフトパワー、すなわちアニメ・禅・茶道・ミニマリズムといった文化的パッケージが影響している。 このような背景のもと、日本人であることを明かすと、「え、日本人?すごい、寿司作れるの?」といった、ややステレオタイプ的だが好意的な反応が返ってくることも多い。一方で、中国人であると認識されると、「ああ、チャイナタウンで働いてるの?」というような、やや画一的なイメージが投影されることも少なくない。 第五章:では、我々はどうすべきか? 自分たちの文化を語る責任 イギリス社会において、日本人である、あるいはアジア人であるという立場は、時にステレオタイプの対象となりやすい。しかし、だからこそ我々には、自分たちの文化を正確に、そして誇りをもって語る責任がある。区別がつかないなら、教えればいい。間違った「うまさ」評価があるなら、それを問い直せばいい。 食を通じた対話の可能性 食というのは、国境を越えて人と人をつなぐ最もシンプルな手段だ。イギリスで本格的な中華料理や日本料理を提供することで、「本当の味」に触れてもらう機会は増えている。また、イギリス人の中にも、ロンドンの中華街やジャパンセンターで本物の味を探し求める人が確実に増えている。 つまり、誤解や無理解をただ嘆くのではなく、それをチャンスに変えていくことが、今のグローバル社会では求められている。 終わりに:イギリス人の中の“アジア”を問い直す 「イギリス人は日本人と中国人の区別がつくのか?」「イギリスの中華料理は中国よりうまいのか?」という問いは、一見すると軽妙な疑問に思える。しかしその背後には、文化と文化が交差する場所で生まれる誤解と再発見、アイデンティティとイメージの複雑な絡み合いがある。 私たちがすべきことは、これらの問いに単純な答えを与えることではなく、その問いの背後にある構造を見つめ、語り、共有することだ。そして、その過程こそが、異なる文化が真に理解しあう第一歩なのだろう。

イギリス北部に潜む極右テロの脅威…ジャーナリストが暴いた驚愕の真実とは?

1. はじめに イギリスは多文化主義を推進する国として知られていますが、その一方で極右思想を持つ人種差別主義グループの存在も無視できません。特にイギリス北部では、過去に極右テロ事件が発生しており、ジャーナリストによる調査報道や政治家への暴力事件が世界的にも注目を集めました。 本記事では、実際にイギリス北部で起きた事件を深掘りし、人種差別主義テロリストグループの実態、ジャーナリストの取材活動、そしてブレグジット直前に殺害されたジョー・コックス議員の事件について詳しく解説します。また、これらの出来事がドラマ化された作品『The Walk-In』についても触れていきます。 2. イギリス北部に根付く極右グループの実態 イギリスでは、極右思想を持つグループがいくつか存在し、その多くが移民排斥、白人至上主義、暴力的な手法による政治的変革を目指しています。中でも、イギリス北部では過去にいくつかの暴力的な事件が発生しており、その一部はテロ行為と認定されています。 近年、特に問題視されているのが「ナショナル・アクション(National Action)」という極右テロリストグループです。このグループは2016年にイギリス政府によって禁止されましたが、その後も地下組織として活動を続けているとされています。 ナショナル・アクションの概要 このようなグループの影響を受けた若者が過激化し、暴力事件を引き起こすケースが増えています。 3. 人種差別主義テロとジャーナリストの取材 イギリスのジャーナリストたちは、極右グループの危険性を広く知らせるために、 undercover(潜入取材)を行いながら彼らの実態を暴こうとしています。特に注目されたのが、スティーブン・グラハムが主演したドラマ『The Walk-In』で描かれた取材活動です。 『The Walk-In』とその元となった事件 このように、ジャーナリストの勇敢な取材活動によって、いくつかの極右テロ計画が未然に防がれてきました。しかし、こうした取材を行うこと自体が非常に危険であり、命を狙われるケースもあります。 4. ジョー・コックス議員殺害事件 2016年6月16日、イギリスの国会議員ジョー・コックス(Jo Cox)が極右思想を持つ男によって殺害されました。この事件は、イギリス社会に大きな衝撃を与えました。 ジョー・コックスとは? 事件の概要 この事件は、イギリスにおける極右過激主義の脅威を改めて浮き彫りにしました。コックス議員の死は、多くの人々にとって大きなショックとなり、彼女の活動を称える運動が世界的に広まりました。 5. 現在の状況とイギリス北東部での注意点 2024年現在でも、極右グループの活動は完全には終息していません。ナショナル・アクションのようなグループは解散させられましたが、類似した思想を持つ小規模な組織や個人がSNSを通じて過激化するケースが増えています。 特に、イギリス北東部(マンチェスター、ニューカッスル、リーズなど)では、移民やマイノリティへのヘイトクライムが時折報告されています。旅行者や留学生がターゲットになる可能性もあるため、以下の点に注意が必要です。 注意点 6. まとめ イギリス北部で発生した極右テロ事件は、社会全体に大きな影響を与えました。ナショナル・アクションのようなグループは、ジャーナリストの取材活動や政府の取り締まりによって壊滅しましたが、依然として過激思想が根付いている地域もあります。 また、ブレグジット直前に殺害されたジョー・コックス議員の事件は、イギリスの政治と社会の分断がいかに深刻であるかを示すものでした。彼女の死を無駄にしないためにも、極右思想に対する警戒と対策が求められています。 最後に、これらの出来事をドラマ化した『The Walk-In』は、極右過激主義の脅威をより多くの人々に伝える重要な作品です。過去の事件を知り、現代の社会問題と向き合うための一助となるでしょう。

白人が殺されると大騒ぎ、有色人種はスルー? イギリスのメディアの選択的正義

イギリスの報道機関は、ニュースの取り扱い方において一定のパターンを持っている。それは「白人が被害者の場合、大々的に報道され、有色人種の場合は極力小さく扱う、もしくは完全にスルーする」というものだ。この選択的報道は、まるで「報道価値の色分け」とでも言わんばかりに、露骨な傾向を示している。 白人が殺された場合:「全国ニュース」の価値 ある日、ロンドンの裕福な白人男性が通りで刺殺されたとしよう。このニュースは、即座にBBCのトップニュースになり、「社会に衝撃を与える事件」として扱われる。記者たちは被害者の家族に直撃し、涙ながらに「彼はどれほど素晴らしい人物だったか」を語るインタビューが流される。地元住民は「こんなことがここで起こるなんて信じられない」と嘆き、政治家は「市民の安全を守るために何かしなければならない」と熱弁を振るう。まるで映画のワンシーンのような感動的なストーリーが展開される。 そして当然ながら、犯人が有色人種だった場合は、事件は単なる暴力事件以上の意味を持ち、「移民による犯罪」という文脈で語られることが多い。「なぜこのような暴力的な人々を我々の社会に受け入れてしまったのか?」という論調が出てきて、「移民政策の見直し」まで議論される。イギリスの保守系タブロイド紙が喜び勇んで「英国の価値観が脅かされている!」と叫ぶのはもはやお決まりの流れだ。 有色人種が殺された場合:「統計のひとつ」 さて、同じ日にロンドンの別の地区で、黒人やアジア系の若者が殺害されたとしよう。この事件について、主要メディアがどう報じるか見てみよう。 まず、報道の優先順位は極めて低い。「ギャングの抗争か?」という軽い調査が行われた後、記事の片隅に数行だけ書かれ、それで終わりである。もしくは、ニュースサイトの「ロンドン地域ニュース」のコーナーに埋もれ、決してトップニュースにはならない。被害者がどのような人物であったのか、その家族の悲しみはどうか、という点にはほとんど触れられない。 さらに、警察の対応も明らかに異なる。白人の被害者の場合は、警察がすぐに特別捜査班を設置し、迅速な対応を行うが、有色人種の被害者の場合は「調査中」のまま何週間も放置されることが少なくない。結果的に「未解決事件」として処理され、遺族は泣き寝入りするしかない。 報道の基準は「共感度」? なぜこのような差が生じるのか? イギリスのメディアの基準を探ってみると、そこには「共感度」という暗黙の尺度が存在しているようだ。 例えば、白人の被害者がいた場合、読者(多くが白人)は「自分たちの仲間が被害に遭った」と感じ、感情的に共感しやすい。一方で、有色人種の被害者がニュースに出ても「遠い世界の話」のように扱われ、「またか」と無関心に流されてしまう。この無意識のバイアスが、報道の優先順位を決定している。 また、メディアの編集部が抱える無自覚な偏見も影響している。イギリスの主要メディアの編集チームは依然として圧倒的に白人が占めており、多様性が欠如している。そのため、「誰がニュースにふさわしいか?」という判断をするときに、自然と白人中心の価値観が反映される。 メディアの言い訳:「報道の需要がない」 イギリスのメディアは「報道には需要があるかどうかが重要だ」と主張する。つまり「白人の被害者のニュースには多くの人が関心を持つが、有色人種の被害者には関心が薄い」という言い訳を使う。しかし、この論理には大きな問題がある。 そもそも、報道が何を「重要なニュース」とするかは、メディア側の判断にかかっている。もしメディアが有色人種の被害者についてもっと詳細に報道し、社会の問題として取り上げれば、関心は自然と高まるはずだ。しかし、現在のメディアの姿勢は「関心がないから報道しない」ではなく、「報道しないから関心が生まれない」という悪循環を生んでいる。 皮肉な結末:人種が逆転した場合 もしも逆の状況が起きたらどうなるか? 例えば、裕福な白人の若者がギャングの抗争に巻き込まれて死亡したら? おそらく、その事件は映画化されるレベルの「悲劇」として語られ、「この国の闇を照らす物語」になるだろう。 一方で、黒人の青年が富裕層の白人に殺害された場合、そのニュースはどれほど大きく報道されるだろうか? 一時的には話題になるかもしれないが、すぐに忘れ去られる可能性が高い。 結論:報道の公平性は幻想 イギリスのメディアが「公正な報道」を掲げるのは、もはやジョークにしか聞こえない。現実には、人種によって報道の温度差がはっきりと存在し、それが社会の意識に影響を与えている。メディアの力は大きく、それがどのように情報を扱うかによって、社会の認識も変わる。 公平な報道とは、「全ての人間の命に等しい価値がある」という原則のもとに成り立つべきだ。しかし、イギリスのメディアは今もなお、「ニュースとして価値のある命」と「そうでない命」を選別し続けている。この現実を変えるためには、メディアのあり方自体を根本から見直す必要がある。