人種差別をなくすために必要なのは、「すべての人に平等な人権がある」という言葉を覚えることだけではない。自分とは違う国に生まれ、違う環境で育った人にも、自分や家族と同じように、大切にされるべき人生があると理解することだ。
ところが、その理解は、自分の生活に余裕がなくなったときに揺らぎやすい。
一生懸命勉強して、大学を出て、就職し、毎日働いて税金を納める。それでも生活は楽にならない。そんなとき、自分が納めた税金が、外国から来た見知らぬ人の生活を支えるためにも使われていると知れば、「なぜ自分が負担しなければならないのか」と感じる人もいるだろう。
その不満を理解することはできる。税金の使い道や支援制度の公平さについて、議論することも必要だ。ただ、その不満から「自分たちのほうが、人間として優先される価値がある」と考えるようになれば、人権に順位をつけることになってしまう。
努力に対する評価と、人間としての価値は、分けて考えなければならない。
働いた成果や社会への貢献を評価することは大切だ。同時に、働けない人や、十分な教育を受けられなかった人にも、守られるべき尊厳がある。人権は、学歴や収入、納税額に応じて与えられるものではないからだ。
ここで考える必要があるのが、生まれた場所と環境の違いである。
私たちは、自分が生まれる国も、親も、家庭の経済状況も選べない。学校に通い、勉強に集中し、将来の仕事を選べる環境で育つ人がいる。一方で、安全に暮らすことや、日々の食事を確保することに、多くの力を使わなければならない人もいる。
同じ「頑張る」という言葉でも、その前提は大きく違う。チャンスという言葉は同じでも、実際に選べる道や、挑戦するために必要な条件は、生まれた場所によって変わってくる。
自分が積み重ねてきた努力には、確かな意味がある。その努力を支えてくれた学校や社会の仕組み、周囲の人々の存在にも、目を向ける必要がある。そこまで考えることができれば、違う環境に生まれた人の苦しみを、「本人の努力が足りない」の一言で片づけにくくなるはずだ。
豊かな国の教育に求められるのは、こうした視点ではないだろうか。
よい成績を取り、よい大学に進み、よい会社で働く。その目標とともに、自分の人生を支えている条件や、異なる環境で生きる人の立場についても学ぶ必要がある。競争の中で成功する力に加えて、人間社会全体を見渡す力を育てることが大切なのだ。
もちろん、ここには難しい感情がある。
「自分の家族や親戚が困っているのに、なぜ赤の他人まで助けなければならないのか」
身近な人を大切にしたいという気持ちは自然なものだ。その気持ちを出発点にして、助けが必要な相手にも、同じようにその人を心配する家族がいるかもしれないと想像してみる。目の前の「外国人」や「支援を受ける人」を、一人の人間として見るための一歩になる。
さらに、見知らぬ人を支えることには、社会の土台をつくる意味がある。
私たちは、いつ病気になり、仕事を失い、誰かの助けを必要とするか分からない。困った人を、その人の出身や立場だけで切り捨てない社会を築くことは、自分や家族が苦境に立たされたときの支えを築くことにもつながる。
赤の他人を助けることは、自分たちも属している人間社会を支えることなのだ。
家族、地域、国という単位で物事を考えることには意味がある。その一つひとつが、人類という大きな社会の一部であることも忘れてはならない。自分たちの暮らしを守りたいという願いと、遠くで暮らす人の尊厳を守りたいという願いを、つなげて考える視点が必要だ。
「すべての人は平等だ」と言うことは簡単だ。その言葉の意味が問われるのは、自分とは違う人に不満を感じたときである。
生まれた国や肌の色が違っても、誰もが安心して暮らし、家族を大切にし、明日を迎えたいと願っている。その共通点を教育と日々の判断の中で確かめ続けることが、人種差別をなくすための出発点になる。










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