
はじめに:1億円はもはや「安心の象徴」ではない
かつて「1億円」といえば、人生にある程度の安心をもたらす金額の代名詞でした。住宅、教育、老後資金。多くの人が夢見た「中流以上」の生活を保障するマジックナンバーのような存在だったのです。
しかし、2020年代のイギリスにおいて、その神話は崩壊しつつあります。高騰する物価、家賃の急上昇、エネルギー価格の乱高下、そして止まらぬ金利上昇――。かつての1億円(約50万ポンド)は、今では「ちょっと贅沢な庶民」としてしか通用しない現実が横たわっています。
セントラル・ロンドンでは「1億円の物件」は庶民レベル
まず不動産。イギリス、とりわけロンドンの不動産価格は世界屈指の高さを誇ります。たとえば、ロンドン中心部のケンジントン、チェルシー、メイフェアなどでは、1億円(約50万ポンド)で購入できる物件は、せいぜい「ワンルーム」あるいは「地下階の1ベッドフラット」に過ぎません。
近年の住宅価格は以下のように推移しています:
- ロンドン平均住宅価格(2024年):約54万ポンド(約1.1億円)
- ケンジントン地区:平均1.3ミリオンポンド(約2.6億円)
- マンチェスターやリバプールなど地方都市でも、中心部では40万ポンド超が珍しくない
つまり、1億円を持っていても、ロンドンの住宅市場では「足がかり」にしかならないのです。しかも、住宅を購入したとしても、その後の維持費(カウンシルタックス、保険、修繕費)や光熱費が家計をじわじわと圧迫します。
インフレ率は依然として高水準:体感物価は2倍以上
イギリスは2021年以降、激しいインフレに見舞われています。とくに食品、エネルギー、交通費など日常生活に直結する分野での値上がりが顕著です。以下は一例です:
- 食パン(1斤):2020年は0.8ポンド → 2024年には1.4ポンド
- 牛乳(2L):2020年は1.2ポンド → 2024年には2.1ポンド
- 電気・ガスの年間平均支出:2020年は1,200ポンド → 2023年には2,500ポンドを超える
「CPI(消費者物価指数)」の上昇率は一時期10%を超え、政府がコントロールを試みるものの、国民の体感としては「2倍に跳ね上がった」という印象すらあります。こうした状況で、仮に1億円を持っていても、その価値は年々「目減り」していくのです。
高まる「生活コストの重圧」──富裕層すら逃げ出す税制環境
ロンドンでは、生活コストの高さが若年層や中間層だけでなく、いわゆる「富裕層」にもプレッシャーをかけています。
イギリスの税制は累進性が高く、以下のように構成されています:
- 所得税(最高45%)
- 国民保険料(NI)
- キャピタルゲイン税
- 相続税(40%)
- カウンシルタックス(市町村税)
実質的な可処分所得が目減りすることで、投資家や起業家の中には、ポルトガル、ドバイ、シンガポールなど、より「タックスフレンドリー」な国へ移住する動きも加速しています。
教育・医療の「実質有料化」が進む
イギリスは国営医療制度「NHS」によって基本的な医療サービスが無料で提供されています。しかし、現実にはNHSの待機期間は長期化し、プライベート医療に頼らざるを得ない状況が増えています。例えば:
- GP(家庭医)の予約:3週間待ち
- 専門医紹介まで:1〜3か月待ち
- 精神医療や歯科:ほぼ完全に民営
また、教育についても公立学校の質のばらつきが大きく、「良い学区」に住むためには高額な家賃や住宅費が必要。あるいは私立校に通わせるとなると、年間で1人あたり1万5,000ポンド〜4万ポンド(300万円〜800万円)という負担がのしかかります。
これらは、「ある程度のお金があっても、満足な医療や教育を受けるには追加コストが必要」という構図を作り出しています。
老後資金と年金制度:国は頼れない現実
多くの日本人と同じように、イギリス人も「老後」に備えた貯蓄を重要視しますが、インフレと医療・介護費の上昇により、老後に必要な資金は年々増加しています。
現在、イギリスの基本年金は以下の通りです:
- State Pension(国民年金):週あたり約220ポンド(約4万円)、年間約11,000ポンド(約220万円)
これは「最低限の生活」がやっとというレベルです。私的年金を積み立てていたとしても、投資のパフォーマンスやインフレ率次第では不十分で、1億円あっても30〜40年の老後を支えるにはギリギリという試算もあります。
生活の質が下がる中、心の健康にも打撃
インフレによって物理的な生活の質が落ちると、メンタルヘルスへの悪影響も避けられません。イギリスでは「生活費危機(cost of living crisis)」という言葉が日常会話の中でも使われるほど社会問題となっており、うつ病や不安障害の患者数も年々増加しています。
調査によれば、イギリス人の約45%が「生活費の不安によって精神的に不安定になっている」と答えています。特に20代〜40代の若年層では、住宅ローン、家賃、教育ローンの返済など、プレッシャーが深刻です。
終わりに:富裕層ですら「持ちこたえるだけ」の時代へ
かつてのイギリスでは、資産が1億円相当あれば「中流上位」の安心を享受できました。しかし今では、生活インフラがじわじわと「自己負担型」へと移行し、資産を持っていても「安心できない社会」になりつつあります。
特に移住者や国際的な富裕層にとって、イギリスは「文化的な豊かさ」はある一方で、「生活のコスパ」は非常に悪くなったという評価が広がっています。
お金を持っていることが安心に直結しない――そんな時代に、私たちは何を目指し、どこで、どんな風に暮らすべきなのでしょうか。
1億円が「安心」から「生存戦略」へと変わっていく。
そんな時代の転換点に、今、私たちは立たされているのです。
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