
グラストンベリーフェスティバルでの「IDFに死を」ラップ発言から見える、自由とダブルスタンダードの境界線
【はじめに】自由なはずの国で、自由が試されるとき
イギリスは長らく「言論の自由」を掲げる西側自由主義国家の一つとして認識されてきた。だが、2025年6月末、サマセットで開催された世界最大級の音楽フェスティバル「グラストンベリーフェスティバル」での出来事は、その前提に大きな疑問符を投げかけた。
あるミュージシャンが、イスラエル国防軍(IDF)によるガザやイランへの軍事行動に抗議し、「Death to the IDF(イスラエル国防軍に死を)」という歌詞を叫んだことで、一部のメディアや政治家が激しい反応を示し、警察までが調査を始めたのである。
果たしてこれは、本当に“ヘイトスピーチ”だったのか。それとも、都合の悪いメッセージを封じようとする「言論統制」だったのか。しかも、これがもしイランやガザへの攻撃を賛美する発言だった場合、果たして同じような大騒ぎになっていただろうか?本記事では、その疑問を出発点に、英国の言論の自由の現状とメディアのダブルスタンダードについて掘り下げていく。
【事件の概要】ステージ上での発言とその余波
問題の発言を行ったのは、ラップ・パンク・デュオとして知られるBob Vylan。彼らはライブ中、「IDFに死を」というフレーズを観客と一緒に叫び、イスラエルの軍事行動に対する激しい非難を音楽という形で表現した。
このパフォーマンスはBBCによって生中継されており、即座に視聴者から苦情が殺到。BBCは後に「このような発言を放送したのは不適切だった」として謝罪した。イギリスの警察も、ヘイトスピーチや暴力扇動に該当するかどうかを調査中だという。
一方、Bob Vylan側は「我々は政治的沈黙を拒否する」「ガザでの虐殺に沈黙する方が罪だ」と主張し、表現の自由を守るために声を上げ続ける姿勢を崩していない。
【比較検証】もしこれがイランやガザへの批判だったら?
ここで浮かぶのが「ダブルスタンダード」という言葉だ。もし彼らが「Death to Hamas」あるいは「Death to the Iranian Revolutionary Guard」と叫んでいたら、これほどの批判に晒されたのだろうか?その問いに答えるには、英国社会とメディアの反応の“基準”を検証する必要がある。
事実、過去にも他国の軍事組織や権威主義体制を批判するアーティストは数多くいた。例えばロシアのウクライナ侵攻を非難する歌詞、イランの女性弾圧に反対するポエトリーラップなどは、多くの支持を受けることがあっても、今回のような“捜査対象”になることはなかった。
つまり、「ある特定の国」──この場合はイスラエル──に対して否定的なメッセージを発した瞬間、その内容の是非ではなく“誰に向けて言ったか”によって炎上や弾圧が始まるという構図が、浮き彫りになっているのだ。
【英国法と表現の自由】どこまでが「自由」で、どこからが「犯罪」か?
英国における言論の自由は、「人権法1998」により保障されている。が、同時に公共の秩序や他者の権利を侵害する発言は制限されうる。
特に以下のような要素が含まれると、表現の自由の枠を超えて“犯罪”とされる可能性がある。
- 暴力行為を直接的に扇動する言葉
- 特定の民族・宗教に対する差別的発言
- 公共の場での脅迫的表現
今回の「IDFに死を」は、軍隊という“組織”に対する発言ではあるが、「死を」という表現が暴力の正当化・煽動と捉えられかねないという指摘がある。
とはいえ、「殺せ」「死ね」という表現がメタファーや抗議手段として使われるのは音楽界では珍しくない。実際、過去の反戦・反体制ラップやパンクロックには、さらに過激な表現も存在していた。
この事件のように、“内容”ではなく“対象”が問題視される状況は、言論の自由の精神から逸脱しているのではないか。
【メディアの姿勢】報道の中立性と政治的忖度
英国の主要メディアの反応もまた、興味深い対照を見せている。
- Bob Vylanの発言は「反ユダヤ主義」「ヘイトスピーチ」として一斉に糾弾。
- しかし、他のアーティストが「Free Palestine」「Stop the War」などと叫んでも、ここまで激しい反発は見られなかった。
これは、イスラエルという国家の特殊な立場──歴史的迫害、国際社会との関係、宗教的背景──が影響していると考えられる。メディアもまた、「誤解を招くこと」を恐れ、過剰に自粛あるいは攻撃的に反応してしまうという構図だ。
また、BBCが当初ライブを中断せず放送し、その後謝罪したことも、「責任の所在」を曖昧にし、自己検閲が強まる要因となっている。
【政治家たちの反応】“正しさ”と“人気取り”の境界
英国の複数の政治家もこの件に言及し、「断固たる対応が必要」「公共の場での憎悪発言は容認できない」と非難の声を上げている。
だがその一方で、イランの反体制派に寄り添う発言や、他国への制裁支持には躊躇なく賛同するケースもある。この“使い分け”は、言論の自由の理念とは無関係な、“政治的都合”によるものだという疑念を拭いきれない。
つまり、「誰を批判したか」によって、その人の言論の価値が決まってしまうのであれば、それはもはや自由ではなく、「制限付きの許可制」だ。
【アーティストの覚悟】音楽に何を託すのか
Bob Vylanの発言が適切だったかどうかは、意見が分かれるだろう。しかし、彼らが伝えたかったメッセージ──「沈黙は共犯である」という信念──は、多くの共感を呼んでいる。
音楽は、社会に対する異議申し立ての手段であり、時には現状を揺さぶる挑発でもある。それが不快であっても、耳を塞ぐのではなく、その背景にある痛みや怒りに耳を傾けることが必要だ。
【結論】本当に守るべきものは何か
今回の事件は、イギリスにおける言論の自由の限界と、メディア・政治が抱える矛盾を炙り出した。自由を掲げる国で、特定の意見や批判がタブーとされるなら、それは自由ではない。
表現の自由は、耳に痛い言葉を許容することで初めて意味を持つ。攻撃的な言葉を全て容認せよというわけではない。しかし、批判と扇動の線引きが「誰を批判したか」によって変わるようでは、社会全体の健全性が問われる。
イギリスが本当に自由な国であり続けるためには、メディア・政治・市民一人ひとりが、自由の本質と、その脆さについて真剣に考える必要があるだろう。
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