
かつて、ロンドンの賃貸住宅市場には、静かな秩序が保たれていた。
「大家」と聞けば、どこか優雅で落ち着いた、資産運用を悠然と見守るリタイア世代の紳士淑女。
彼らは何十件もの物件を抱えながらも、テナントに対してはどこか寛容で、「まあまあ、次の家賃は少し遅れても構わんよ」などと、心の余裕をにじませる存在だった。
だが今、その「平和な時代」は完全に終焉を迎えてしまった。
2020年、世界を襲ったパンデミック―新型コロナウイルスの猛威は、単なる健康上の危機にとどまらず、都市構造そのものを静かに、しかし確実に侵食した。ロンドンも例外ではない。そしてその中で、特に目に見えて変化したのが、「大家の質」である。
◆ パンデミック前の「貴族の大家」たち
かつての大家像は、実に穏やかなものであった。
富裕層が資産の一部として保持していた複数の物件。それらを気まぐれに貸し出し、「住んでくれる人がいて助かるわ」くらいの温度感で対応する姿勢。
老後の資金繰りにちょっとした彩りを加える程度の家賃収入。あるいは、赴任先で不在になる期間だけ家を貸したい、という限定的な貸し出し。
金銭にがっつかず、「家賃?まあ市場価格に合わせてくれたらいいよ」と言ってくれるような、心に余裕のある家主たちが主流だったのだ。
つまり、大家=ある程度の経済的安定を持った人物という公式が、長らく成り立っていたのである。
◆ ロックダウンが変えた世界、そして「新・大家層」の誕生
だが、2020年春。すべてが音を立てて崩れ始める。
街が止まり、人の動きが消え、経済は凍りついた。テナントが家賃を払えなくなり、物件の空室期間は異常なまでに延び、管理コストばかりが大家の肩にのしかかる。
これにより、持ちこたえきれなかった大家たちが次々と物件を手放し始めた。
手元にある現金を死守するために、不動産を売却し、ローンの重圧から逃れる者。
あるいは、逆に生活資金を稼ぐために、自ら住んでいた家を貸し出し、大家に”転職”した人々。
そしてこのとき、大家という職業は「富の象徴」から「生き残り戦略」へと変貌を遂げたのである。
◆ 生活が破綻寸前の「素人大家」が爆誕する
今やロンドンには、ある種“必死すぎる”大家たちが溢れている。
彼らは不動産業の素人だ。プロの管理会社など通さず、すべてを自分でやろうとする。
家賃を一日でも遅れようものなら、すぐに怒鳴り込んできて、「契約違反だ!即退去!」と恫喝。
挙句の果てには、「この家の壁にヒビが入ったのは、お前がドアを強く閉めすぎたせいだろう」などと、笑ってしまうような言いがかりをつけ、修繕費をテナントに請求してくるのだ。
◆ 「今月の家賃で家族の食費が決まる」大家の異常な執着
想像してほしい。
以前なら、家賃は単なる副収入、いわば「お小遣い」だった。
だが今では、それが家主自身の「生命線」になってしまっているのだ。
今月の家賃が払われなければ、彼らは電気代も払えない、食料品も買えない。
そんな極限状態の人間が、冷静にテナントと接することができるだろうか?
答えは否だ。
家賃督促のLINEは早朝6時に鳴り響き、未払いになったその日のうちに「内容証明」が届く。
たった1日遅れただけで、「あなたには住む資格がない」とまで言われる。
金に追われる大家は、恐ろしく冷酷で、同時に極めて理不尽な存在へと変貌する。
◆ 「地獄のような借家体験」―被害テナントの証言
ある日本人女性は、コロナ後に借りた物件で「まるで監獄のような生活」を強いられたと語る。
週に一度は突然訪問してくる大家、鍵を勝手に変えようとする、修繕を依頼すると「自分でやれ」の一点張り。
冷蔵庫が壊れたと訴えたところ、「君が変なもの入れたせいじゃないか?」と言われたという。
別のテナントは、水漏れが起きて連絡したところ、「じゃあ、家賃下げるから自分で直して」と開き直られた。
今、ロンドンの一部では、大家とのやり取りに精神的に疲弊し、「もう引っ越すのは嫌だ」と言う若者が急増しているという。
◆ なぜこのような事態に?―制度の欠如と、規制の甘さ
問題の背景には、ロンドンの賃貸市場を取り巻く規制の脆弱性がある。
イギリスには、他国と比較しても家主を厳しく取り締まる法整備が遅れており、悪質な大家がのさばる余地があまりに広すぎる。
さらに、テナントが自分の身を守るための知識も手段も不足している。
英語が堪能でなければトラブルの記録すら残せず、法的対応を取ることも難しい。
つまり、現在のロンドンは「素人大家の無法地帯」となりつつあるのだ。
◆ これからどうなる?―未来への警鐘
家賃は高騰を続け、大家はますます貧困化し、テナントとの関係は緊張の糸のように張り詰める。
このままいけば、ロンドンは「住みたい都市」から、「住めない都市」へと転落してしまうだろう。
求められるのは、規制の強化、監視機関の設置、テナント保護の徹底的な制度化である。
それがなければ、真面目に働き、普通の生活を送りたいだけの人々が、金の亡者と化した“貧困大家”の餌食となる未来が続いてしまう。
◆ 最後に―善良な大家よ、どうか生き残ってくれ
もちろん、今もなお良識ある大家は存在する。
人としての温かみを持ち、テナントを家族のように扱ってくれる人もいる。
だが、それは絶滅寸前の絶滅危惧種だ。
このままでは、善意が淘汰され、欲と恐怖だけが支配する都市が完成してしまう。
ロンドンは、かつて世界の希望だった。
だが今、その輝きは家賃の請求書の山に埋もれ、修繕放置のヒビに歪んでいる。
あなたが次に借りる家。その大家は「味方」だろうか?それとも―「地獄の門番」なのだろうか?
コメント