
イギリスという国には、気候的にも文化的にも「南北格差」という言葉がついてまわる。実際に南部と北部では、経済力、アクセント、雇用の状況、政治的傾向など、さまざまな点で違いが見られる。しかし一方で、ある奇妙な一貫性もある。それは、「料理の味付け」に大きな地域差が見られないという点である。
ヨーロッパ大陸の他国、たとえばフランスやイタリアでは、地域によって食材も調理法も味付けも大きく異なる。北イタリアと南イタリアの料理がまったく別物であるように。しかしイギリスでは、ロンドンからスコットランドのインヴァネスまで旅しても、提供されるミートパイやフィッシュ・アンド・チップスの味に大きな違いは感じられない。なぜイギリスでは「味変なし」の食文化が定着しているのか。その歴史的背景と地域性、文化の特異性に焦点を当てながら考察していく。
イギリスの「味の一貫性」が際立つ理由
地理的な背景と農業の制約
イギリスの食文化を語る上でまず押さえておきたいのは、その「地理的制約」である。イギリスは冷涼な海洋性気候に属し、南部であっても地中海のような豊富な野菜や香辛料が育ちにくい。特に北部は寒冷で、育つ作物は限られ、小麦、大麦、ジャガイモ、キャベツ、ニンジンなどが中心となる。南北で農作物にそれほど大きな違いがないため、自然と「味の差異」が生まれにくい。
また、イギリス全体で香辛料の使用は比較的控えめであり、塩・胡椒・ビネガー・マスタードなど、基本的でシンプルな調味料が中心となっている。この傾向は、地域ごとの大きな味の違いを生みにくくする。
産業革命による標準化と工業化
イギリスの食文化が画一化したもう一つの大きな要因は、18世紀後半から始まった産業革命である。産業革命は都市への人口集中を生み、労働者階級を大量に生み出した。この時代、食事は「栄養を効率的に摂る」ことが主目的となり、調理よりも大量生産・保存性が重視された。
工場労働者向けの簡素な食事(パイ、ポリッジ、ベイクドビーンズなど)が一般化し、その味付けは非常にシンプルだった。特定の地域で特別な料理が発展する余地は少なく、ロンドンでもリヴァプールでも同じような「労働者食」が食卓を支配することになる。
缶詰食品やレトルト食品の普及も「味の標準化」に拍車をかけた。全国のスーパーで同じものが手に入るようになることで、家庭料理のバリエーションはむしろ減少していく。こうしてイギリスは「どこでも同じような味」の国へと進んでいった。
階級社会と料理:味の「意識的な均質化」
中流階級の拡大と「無難な味」
イギリスの食文化におけるもう一つの鍵は、「階級意識」である。イギリスは伝統的に強い階級社会であり、食べ物の嗜好にもその影響が色濃く反映されてきた。たとえば19世紀ヴィクトリア朝時代、上流階級ではフランス料理のような洗練された料理が好まれた一方、下層階級は粥やパイといったシンプルな食事に甘んじていた。
20世紀に入り中流階級が拡大してくると、彼らは「冒険的でない、保守的な味」を好むようになった。これは、上流のような過剰な贅沢でもなく、下層のような質素さでもない、「中庸で安心感のある味」である。このような味覚の志向が国民全体に広がり、味の個性よりも「無難で失敗のない味」が支持されていくこととなった。
スパイスへの距離感:植民地と本国のギャップ
インドやカリブ諸島など、多くの植民地を抱えたイギリスは、実は豊富なスパイスやエスニックな料理に触れる機会があったはずである。実際、現代のイギリスでは「チキン・ティッカ・マサラ」が国民食とも呼ばれる。しかし、これは比較的近年の話である。
本国のイギリス人にとって、「スパイスのきいた料理」は長らく「外のもの」であり、自国文化に根付くことはなかった。味付けにおいても、家庭では変わらず塩と胡椒がメインであり、地域ごとのスパイスの使い分けなどは発展しなかった。つまり、イギリス本土ではスパイス文化が「外付け」として扱われ、地域内で消化されることが少なかったのである。
地域料理の存在とその限定性
イギリスにも地域料理は存在する
もちろんイギリスにも地域料理は存在する。スコットランドのハギス、ウェールズのラムとリーキのスープ、コーンウォールのパスティなどがその代表例だ。しかし、これらは「地域のアイデンティティ」を象徴するものであり、日常の味付けや食卓に大きく影響する存在ではない。観光客向けに提供されることが多く、「特別な料理」として扱われることが多い。
食材の違いより、「名称」や「形式」の違い
たとえば、北イングランドで提供されるブラックプディング(豚の血のソーセージ)はマンチェスター名物とも言われるが、味そのものはスコットランドのブラックプディングと大差はない。ヨークシャープディングといっても、味付けは小麦粉と卵、牛乳であり、そこにスパイスの違いが出るわけでもない。
つまり、イギリスでは「料理の名前」や「食べられる形式」に地域性が現れても、「味覚の違い」にまでは発展しないことが多い。
グローバル化と再びの「均質化」
現代のイギリスでは、ロンドンやマンチェスターなどの都市を中心に、移民の影響で多様なエスニック料理が普及している。とはいえ、それらは「外食」文化の一部であり、「家庭の味」としての地位を確立しているわけではない。
加えて、冷凍食品、全国チェーンのスーパー、デリバリーサービスなどが普及したことで、ローカルな味の違いはますます希薄化している。リヴァプールの冷凍パスタと、リーズのそれとで大きな味の差を感じることはない。
イギリス人の味覚そのものが変わらない?
ここまでの議論をふまえて言えることは、イギリス人の味覚自体が「地域差を好まない」ように社会的に形成されてきた、ということである。控えめな味付け、素材の味を重視する姿勢、過剰なスパイスへの警戒感、階級意識からくる保守的な食習慣などが複雑に絡み合い、「味変を求めない国民性」が育まれてきたとも言える。
結論:味の変化は望まれなかった
イギリスでは、南から北へ移動しても料理の味付けが変わらない。この背景には、農業的制約、産業革命による食の画一化、階級社会による味覚の統一、そして現代のグローバル経済による均質化がある。言い換えれば、イギリスにおいて「味の一貫性」は、偶然ではなく必然なのだ。
寒さが厳しくなる北へ向かっても、フィッシュ・アンド・チップスの塩気やビネガーの酸味は変わらない。それは、変わらないことこそが「イギリスらしさ」であり、イギリスの食文化の最もユニークな側面のひとつである。
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