
無料医療の理想と現実
イギリスの医療制度、いわゆるNHS(National Health Service)は、世界でも特異な存在として知られている。すべてのイギリス在住者が原則として医療を無料で受けられるという仕組みは、多くの国民の誇りであり、海外からも賞賛されてきた。
しかし近年、この「無料医療」が本当に機能しているのか、大きな疑問が投げかけられている。特に、病院の待ち時間の長期化は深刻化の一途をたどっている。今や「1カ月、2カ月待ちは当たり前」という状況は、多くの市民にとって日常的な現実となっている。
診察を受けられない「無料」医療
一見すると、医療が無料であるということは夢のような制度に思える。実際、風邪を引いてGP(かかりつけ医)に行っても、救急車を呼んでも、手術を受けても一切費用はかからない(処方箋の費用はイングランドでは一部負担あり)。
しかし、問題は「アクセスのしやすさ」にある。たとえば、腰痛で専門医に診てもらいたいと思っても、まずGPの診察を受けるまでに数日から数週間、そこから専門医の予約が取れるまでさらに数週間から数カ月待つのが現実だ。手術が必要な場合も、手術まで半年以上待たされることも珍しくない。
待ち時間の実情
2025年初頭のデータによると、NHSの外来診察待ち患者数は700万人を超えた。これは人口の約1割に相当する。このうち100万人近くが、すでに診察待ち期間が18週間(約4カ月)を超えているという衝撃的な数字である。
一方、緊急手術を要する患者ですら、待機時間が数週間に及ぶケースも出ている。がん患者の初診や治療開始までの遅れが問題視され、早期発見の意義が失われつつある。
なぜこんなに待たされるのか?
- 人手不足 医師や看護師、技術スタッフの深刻な不足が続いている。NHSではコロナ禍を経て大量の離職者が出ており、補充が追い付いていない。
- 予算不足と構造的問題 NHSの予算は年々増加しているとはいえ、需要の伸びには追いついていない。加えて、老朽化した設備、官僚的な運営体制も効率を悪化させている。
- 高齢化と慢性疾患の増加 高齢者の増加と、それに伴う慢性疾患(糖尿病、心疾患、認知症など)の患者数増加が医療需要を押し上げている。
- 地域格差 都市部では比較的アクセスが良いが、地方や貧困地域では医療施設の数自体が少なく、待ち時間がさらに長くなる傾向がある。
国民の不満とあきらめ
イギリス国民の多くは、「NHSは崩壊しつつある」と感じているが、それでも制度自体を支持する声は根強い。なぜなら、「お金がないから病院に行けない」という心配がないことは、精神的にも大きな安心材料となっているからだ。
とはいえ、実際に身体に不調を抱えて何週間も放置せざるを得ない状況は、誰にとっても苦しい。多くの市民は、「結局、無料でも診てもらえなければ意味がない」と皮肉交じりに語る。
民間医療の台頭
このような状況のなか、民間医療の需要が急速に高まっている。保険会社と契約するプライベート医療や、自費での診察・手術を選ぶ人も増えている。一定の費用を払えば、すぐに専門医に診てもらえ、必要な検査も即日受けられる。
もちろん、誰もがこのような選択肢を持てるわけではない。民間医療の利用は、経済的に余裕のある層に限られており、医療の「二極化」が進行しているとの批判もある。
他国との比較
イギリスの医療制度は、カナダや北欧諸国と似た「税金による無料医療モデル」である。しかし、スウェーデンやノルウェーでは、一定の自己負担がある代わりに待機時間は短く、選択肢も多い。
また、ドイツやフランスでは「社会保険制度」により、比較的早く専門医の診察が受けられる体制が整っている。つまり、イギリスの制度は「無料であること」を最優先にした結果、「迅速な対応」が犠牲になっている構造なのだ。
政治の対応と限界
各政党は選挙のたびに「NHSへの投資増」を公約に掲げるが、根本的な改善には至っていない。医療制度の改革は有権者にとって感情的な問題であり、「無料」の原則を崩す提案は政治的に非常にリスクが高いため、抜本的な制度改革には慎重にならざるを得ない。
また、医療従事者の待遇改善、教育体制の見直し、IT化の遅れなど、多岐にわたる課題が複雑に絡み合っている。
患者として何ができるか?
市民側としては、定期検診を受ける、GPとの関係をしっかり築いておく、民間医療の利用も視野に入れるなど、自衛手段を講じることが求められる。また、医療制度について正しい知識を持ち、必要に応じて政策に声を上げることも重要だ。
結びにかえて
「無料だが診てもらえない」という、ある種のパラドックス。それが今のイギリス医療の現実である。無料医療という理想は守られているが、その代償として多くの市民が「待ち時間」という形で痛みを抱えている。
NHSは今、制度の原点に立ち返り、「誰もが迅速に、質の高い医療を受けられる社会」の実現に向けた変革が求められている。そのためには、政治家の勇気、社会の合意、そして市民一人ひとりの理解と行動が不可欠である。
コメント