
ロンドン中心部で起きている静かな違和感
ロンドンの午後。グレーの空から細かな雨が降り続けるなか、パレスチナの旗を手に持つ一人の若者が、トラファルガー広場の片隅に立っていた。言葉を発することもなく、ただ沈黙のうちに掲げる旗は、遠い土地で起きている人道的危機への抗議と連帯の意を示していた。彼の隣には、スーダンでの内戦やコンゴ民主共和国における暴力の連鎖に言及したプラカードが並ぶ。
しかし、その静かな光景は長くは続かなかった。やがて近づいてきた警察官が「公共の秩序を乱す恐れがある」として、若者たちにその場を離れるよう命じたのだ。何か騒ぎが起きたわけではない。シュプレヒコールすらなかった。ただ「存在」そのものが問題視された。
ところが、そのわずか数ブロック先では、イスラエルへの支援を訴える大規模なデモが警察の厳重な警備のもと、堂々と行われていた。プラカードや旗の数も、集まった人々の数もはるかに多い。しかしこちらは「治安リスク」と見なされることなく、むしろ市当局の協力すら得て、自由にその意見を表明していた。
このコントラスト―何が合法で、何が違法なのか。その線引きは一体、誰がどのように決めているのか?
「自由」の国に広がる不自由な空気
イギリスは長年、「表現の自由」や「民主主義」の象徴として世界に語られてきた国である。マグナ・カルタに始まる市民の権利の歴史、議会制民主主義の先駆け、BBCによる報道の自由―これらは、自由と法の支配を重んじる国としての誇りの一部だった。
しかし今、その「自由」が静かに揺らいでいる。
問題の核心にあるのは、抗議活動に対するダブルスタンダードだ。同じように人道的危機に対して声を上げても、その「対象」によって、警察の対応や社会の許容度が著しく変わってくるという現実である。
「パレスチナを支援する声」は、ときに「反ユダヤ主義」と誤認され、「テロ支援」とのラベリングを受ける危険性がある。一方、イスラエル支持の立場は「国家の安全保障」や「友好国支援」として容認されやすい。同様に、スーダンやコンゴの情勢を訴える活動も、注目されることは少なく、時には不審な行為とみなされることさえある。
このような偏りのある対応が続けば、表現の自由は「全ての人に等しく与えられた権利」ではなく、「国家が認めた人だけが行使できる特権」と化してしまう。
法律という名の“選別ツール”?
この不均衡な状況の背景には、近年強化された一連の法律がある。特に2022年に施行された「公共秩序法(Public Order Act)」は、抗議活動に対して警察が強い権限を持つことを認めており、「公共の秩序を乱す恐れ」があると判断すれば、事前の届け出があっても活動を中止させることができる。
問題は、この「恐れ」の判断基準が極めて主観的で曖昧だという点だ。
例えば、「Free Palestine」と書かれたプラカードを持って立っているだけで、逮捕や退去命令を受けた例が報告されている。警察は「他者に不快感を与える恐れがある」という理由で排除に動くが、何が「不快」なのか、その基準は明示されていない。
一方、イスラエル支持の集会やウクライナ支援のイベントが同様の扱いを受けることは稀だ。こうした選別が繰り返されることで、社会には「どの主張なら許されるのか」「誰の声は黙殺されるのか」という新たな暗黙のルールが生まれてしまっている。
背後に潜む“見えない力”―外交とロビー活動
このような差別的な運用の背景には、単なる現場の判断ミスではなく、より大きな構造的要因があると指摘されている。それは政治的立場、外交関係、そして経済的利害である。
イギリス政府は長年、イスラエルとの経済・防衛面での連携を深めてきた。イスラエルとの情報共有、兵器の共同開発、そして中東戦略におけるパートナーシップ―こうした背景があるため、政府がイスラエル支持の立場を明示的・黙示的に保護するのは、ある意味で「国家の都合」でもある。
また、ロビー団体の影響力も見逃せない。特定の団体が政治家やメディアに与える影響は非常に大きく、どの問題が「報じられるべきニュース」として扱われるかに大きな偏りを生んでいる。スーダンやコンゴの惨状がほとんど報じられないのに対し、イスラエル関連のニュースは日々大きく取り上げられることが、その象徴である。
「選ばれた声」と「排除された声」
こうした状況下では、もはや「抗議の自由」すら政治的に選別されているといえる。
声を上げる者が、「どの国家を支持しているのか」によって、その行動の合法性や社会的評価が決まってしまう。これは、民主主義国家として極めて危険な兆候だ。
さらに深刻なのは、現場の警察官自身が、なぜ一方が違法で、もう一方が合法なのかを明確に説明できないケースが多いということ。ある活動家は、逮捕された際に理由を尋ねたところ、「上からの指示だ」としか答えが得られなかったと語っている。
このような曖昧な執行が続けば、社会の側も「自分の表現が違法かもしれない」と萎縮し、自己検閲に陥るようになる。それは、権力にとっては都合がよく、市民にとっては息苦しい社会の始まりを意味する。
支援は「国家」ではなく「人」へのもの
もちろん、国家がテロリズムや過激思想から市民を守る責任があるのは当然のことだ。しかし、問題なのは、平和的な抗議や市民の連帯までもが、「治安リスク」として一括りにされてしまっていることだ。
パレスチナの人々、スーダンの避難民、コンゴの紛争被害者―彼らが求めているのは、武器でも革命でもなく、ただ「生きることへの権利」である。その声に対する連帯が封じられる社会は、既に人権の根本を見誤っている。
私たちは、誰を応援するか以前に、「人として、苦しむ他者に目を向けること」が本来の連帯ではなかったか?
国家の旗ではなく、命の重さに対して支援の手を差し伸べるべきなのだ。
民主主義の礎は「異なる声」に寛容であること
表現の自由とは、単に「好きなことを言える」という権利ではない。最も重要なのは、「異なる意見が安全に表明されること」である。
「あなたの意見は不快だから排除される」
「その旗は政治的に都合が悪いから禁止される」
このような社会は、民主主義とは名ばかりの管理社会に変わりつつある。自由は、同調にだけ与えられるものではなく、異論・批判の中にこそ育まれるべきだ。
最後に――私たちは何を守るべきか
今、イギリス社会に問われているのは、「どちらの味方か」ではない。「誰の権利が、守られていないのか」という視点だ。
声を上げる自由は、特定の国の利益のためにあるのではない。権力や支配に苦しむ人々の声がかき消されないように、そこに立つすべての人に与えられた普遍的な権利なのだ。
私たちは、いつでも「声を上げられる側」ではないかもしれない。いつか「声を上げなければならない側」になるかもしれない。そのとき、その声が守られる社会であってほしい。
掲げる旗の色で自由が決まる社会に、未来はない。
今こそ、「誰の側につくか」ではなく、「誰の権利を守るか」が、民主主義の本質として問われている。
コメント