
クジラが突きつける問い:震災の記憶と環境意識の“すれ違い”
2025年初頭、ロンドン中心部に設置された一体の巨大なクジラのオブジェが、思わぬ形で国際的な注目を集めた。このクジラは、すべて海から回収されたプラスチックごみで作られたアート作品であり、「海洋プラスチック汚染に目を向けてほしい」という明確なメッセージを放っていた。
しかし、その作品内部に含まれていた“ある一つのプラスチックケース”が日本で波紋を広げた。2011年の東日本大震災による津波で流出した可能性が報じられたからだ。「不謹慎だ」「震災を冒涜している」といった声が日本国内で上がり、展示の本来の意図とはかけ離れた感情的な議論が巻き起こった。
だが、本当に問題視すべきは“津波の遺物”が使われたことなのだろうか?むしろ私たちは、環境問題への意識の欠如や、国際社会との感覚のズレ、そして日本社会の中に根強く残る環境に対する“鈍感さ”にこそ、目を向けるべきではないか。
クジラという象徴:海の悲鳴を伝えるアート
全長10メートルを超えるこのクジラのオブジェは、ヨーロッパ各地の海で回収されたプラスチックごみを素材に、環境団体とアーティストが共同制作したものである。なぜ“クジラ”なのか?それは、クジラがプラスチック汚染による被害の象徴的存在だからだ。
誤ってプラスチックを食べて命を落とすクジラやイルカ、ウミガメたち。分解されず、何十年、時に数百年と海に漂うプラスチック。私たちの消費行動が、いかに海洋生物の命を脅かしているかを、このアートは雄弁に語っていた。
日本国内の反応:震災の記憶か、現実の否認か
その中に「津波で流された可能性のある日本製プラスチック」があったことで、批判の声が集まった。「震災被害者を冒涜している」「遺族の感情を軽視している」といった意見もあった。
だが、それは本当に“震災の記憶”を守る姿勢なのだろうか。むしろ、その漂流物が十年以上も海に残り、今なお環境に影響を与え続けているという現実こそ、私たちが直視すべき問題ではないか。
なぜ世界と視点がズレるのか?――クジラを巡る食文化と倫理
ここで無視できないのは、日本国内で「クジラ」が依然として“食材”として扱われている現実だ。商業捕鯨の再開後、日本は世界からの厳しい批判にさらされ続けている。それにもかかわらず、多くの日本人がこの事実を問題視せず、文化の名のもとに正当化する姿勢を崩していない。
その結果、クジラという動物に対して日本と世界の間に大きな認識の隔たりが生まれている。ロンドンの“クジラ”が象徴したのは、環境危機だけではない。日本が国際社会の声にどれほど鈍感であり、自国中心の価値観にどっぷりと浸かっているかという構造的な問題でもあるのだ。
日本の「分別神話」と環境対策の限界
日本は「清潔でリサイクルが進んだ国」としてのイメージを持たれがちだが、その実態は異なる。たとえば日本のリサイクル率85%という数字の大半は、実質的には「サーマルリサイクル」=焼却による熱回収であり、欧州ではこれをリサイクルとは認めていない。
さらに、過剰包装、レジ袋の依存、コンビニ文化など、日常生活の中に大量のプラスチック消費を助長する要素が数多く存在している。分別しているから安心、という自己満足の殻を破らなければ、本当の意味での環境改善にはつながらない。
他国の取り組みに学ぶ:意識と制度の変革
ヨーロッパでは、フランスが段階的にプラスチック製品の販売を禁止、ドイツでは高精度の分別とリユース容器の普及、スウェーデンでは“ごみゼロ”政策の徹底と、各国が市民意識と法制度の両面から脱プラスチックを推進している。
こうした動きと比べたとき、日本は「遅れている」という現実を受け止めるべきだ。
クジラの問いかけ:記憶と未来は両立できる
震災の記憶を大切にすることと、未来の環境を守る行動を取ることは、決して矛盾しない。むしろ、災害を経験した国だからこそ、より一層自然環境の脆さに敏感であるべきなのではないか。
私たちにできることは、日々の行動を見直すこと。プラスチック消費を抑える。再利用を習慣化する。政治に関心を持ち、環境政策に声を上げる。そうした一つひとつの選択が、クジラを救い、地球を救う道につながる。
世界とつながるということ
「海はすべての国とつながっている」。ロンドンのクジラは、この真実を静かに、しかし力強く訴えている。震災の記憶に敬意を払いながらも、それを“言い訳”にして国際的な課題から目を背けるのではなく、そこから新たな未来への責任を引き受けること。
いま、私たちに問われているのは、「何を守るのか」ではなく、「どう未来と向き合うのか」である。
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