
2025年春。かつて穏やかだったイギリスの年金生活者たちの暮らしが、アメリカ発の突風によって大きく揺らいでいる。きっかけは、ドナルド・トランプ前米大統領による新たな関税政策、通称「解放の日関税」だ。この保護主義的な措置は瞬く間に世界市場に影響を及ぼし、英株式市場も例外ではなかった。
そして、その余波を最も深刻に受けたのが、人生の後半戦を迎え、年金を支えに暮らすリタイア層だ。
株式に託された「老後の安心」
エセックス州に住む63歳の退職者、アラン・フレイザー氏はその一人だ。数年前に勤めていた建設会社を退職し、手元に残った約14万ポンドの年金資産を株式市場に投資した。
「リスクは分かっていたさ。だけど、銀行に寝かせていても、金利じゃ生活は賄えない」
そう語るフレイザー氏が頼りにしていたのは、月に2,500〜3,000ポンドの運用益。これにより、彼は小さな家の住宅ローンを完済し、妻とともに慎ましくも快適な暮らしを送っていた。しかし、トランプ前大統領が突如として導入した関税政策を機に、株式市場は大きく動揺。フレイザー氏の年金資産はわずか数日で3万2,000ポンド、実に23%もの価値を失った。
「朝、ポートフォリオをチェックしたときは目を疑ったよ。まるで誰かが通帳から金を引き抜いたみたいだった」
なぜ高齢者が投資リスクを取るのか
なぜ、多くの年金生活者が、そもそもリスクの高い株式投資に頼らざるを得なかったのか。それは、長引く低金利時代と、物価高騰による「実質年金の目減り」が大きな要因だ。
過去10年間、イギリスでは政策金利がほぼゼロ付近を彷徨い、預金や債券で資産を増やすことは現実的ではなかった。一方、エネルギー価格の高騰、食品価格の上昇などにより、生活費は年々上昇。特に2022年からのインフレ率上昇は年金受給者にとって痛手だった。
「銀行の利子じゃ、ティーバッグすら買えない」と皮肉るのは、ノリッジ在住の元教師、エリザベス・マクラウドさん(70歳)。彼女もまた、退職後に得た資産を投資信託に回していた。
「政府は物価に合わせて年金を調整してくれるって言ってたけど、実際には全然追いついていないのよ。だったら、自分で何とかするしかないじゃない?」
こうした背景から、リタイア世代が「リスクを取る勇気」を持つようになったのだ。それは投資に対する楽観ではなく、「生き抜くための選択」であり、もはや必然だった。
トランプ関税ショックが突きつけた現実
しかし、2025年3月にアメリカが新たな鉄鋼・アルミニウム・自動車部品への高関税を導入すると、世界の供給網が揺らぎ、イギリス企業の業績見通しも悪化。FTSE100をはじめとする主要株価指数が急落した。
「これは単なる調整ではない。市場心理の崩壊だ」と語るのは、シティ・オブ・ロンドンの証券アナリスト、マイケル・パーキンス氏。
特に打撃を受けたのは、配当狙いで年金生活者に人気のあった大手インフラ・エネルギー・銀行株だ。これにより、多くのリタイア層が生活資金に直接影響を受ける事態となった。
政府と慈善団体の対応
イギリス政府は直ちに懸念を表明。財務大臣レイチェル・リーブス氏はIMF会合に出席し、「保護主義は世界経済の敵」と述べ、EUやインドとの貿易関係強化を目指す姿勢を強調した。
一方、慈善団体Age UKは政府に対し、「年金生活者が市場の混乱に直面した際のセーフティネットが不十分だ」として緊急支援を要請。
「高齢者にとって、数週間の損失は『一生分の生活設計』を狂わせる」と訴えるのは、同団体の政策責任者メアリー・ホール氏。
長期的視点か、生活の不安か
金融の専門家は「焦って全てを売却するのではなく、長期的視点で資産を運用すべき」と口を揃える。しかし、それが「今日明日の食費」に困る人々にとってどれほど現実的なアドバイスだろうか。
「長期で待てって言うけど、私にその“長期”があるかどうか分からないわよ」と笑うのは、76歳のヘレン・バクスターさん。「私は旅行に行きたいわけじゃない。ただ、電気代を心配せずに冬を越したいだけなの」
この言葉に、多くの年金生活者の切実な現実が滲んでいる。
それでも投資を選ぶ、その理由
ここまで読んで「そんなにリスクがあるなら、なぜ投資をやめないのか?」と疑問を抱く人もいるかもしれない。だが、リタイア層の多くは、むしろ「投資こそが自分の未来を切り拓く最後の手段」だと考えている。
「家に閉じこもって、何もせずにお金が減っていくのを見るなんて、絶望だよ」
そう語るのは、リバプールの元エンジニア、ジョージ・ウォーレン氏(68歳)。彼は退職後、株の勉強を独学で始め、今では自作のエクセルシートで配当スケジュールを管理している。
「投資はギャンブルじゃない。自分で判断して、自分の人生を設計するためのツールなんだ」
希望と現実のはざまで
もちろん、全員がうまくいっているわけではない。リスクを取った結果、大きく資産を減らし、再就職を余儀なくされる人もいる。フレイザー氏も「もう一度建設現場に戻るか、スーパーマーケットで働くことを考えている」と語る。
それでも、彼らは投資という選択を「失敗」とは捉えていない。
「後悔はないよ。やらなければもっと早く詰んでた」
この言葉には、ただの経済合理性では語れない、生きることへの意志が込められている。
終わりに:年金制度の再設計を
今回の「トランプ関税ショック」は、単なる経済ニュースではない。これは、既存の年金制度が現代の高齢者のニーズやリスクに十分に対応できていないことを浮き彫りにした象徴的な出来事だ。
イギリスに限らず、多くの先進国で、退職後の生活は「年金+自助努力」という構造になっている。だが、年金制度が硬直化したままでは、自助努力に頼る層の負担は増すばかりだ。
今こそ、政府・金融機関・市民社会が一体となって、「安心して老いることができる社会」の再設計を始めるべき時なのではないだろうか。
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