
イギリスを訪れたことのある人や、イギリスの住宅で生活した経験がある人なら、「洗濯機がキッチン(台所)にある」ことに驚いたことがあるかもしれません。日本をはじめとする多くの国では、洗濯機は脱衣所やランドリールームに設置されるのが一般的ですが、イギリスでは一人暮らし用のフラットから家族向けの住宅まで、洗濯機がキッチンの隅に設置されている光景が珍しくありません。
さらに、多くの住宅で使われている洗濯機は決して静音設計とは言えず、回転が本格化すると大きな騒音を発し、テレビの音がかき消されてしまうほどです。「なぜこんなにうるさいのに、わざわざリビングに近いキッチンに置くのか?」という疑問がわいてくるのも自然です。
この記事では、イギリスの住宅における洗濯機の配置がどうしてキッチン中心なのか、その理由を歴史的背景、建築事情、文化的価値観など多角的な視点から探ります。また、他のスペースに置けそうなのにそうしていないのはなぜか、改善の余地はないのかという点についても考察していきます。
1. 歴史的背景:住宅設計におけるインフラの制約
イギリスの住宅の多くは築年数が非常に古く、ヴィクトリア朝時代(19世紀)やそれ以前に建てられた家も現役で使われています。こうした古い住宅は、現代のようなライフスタイルを想定して設計されておらず、家の中に水道が通っている箇所も限られています。
当初、室内に水回りを設置するという考え自体がなく、トイレは屋外、洗濯は手洗いで屋外またはバスルームで行われていました。キッチンには料理のための水道がすでに設けられていたため、近代になって洗濯機が普及し始めた際、「すでに水道と排水設備が整っているキッチンに設置する」という判断が最も現実的だったのです。
また、古い住宅に新たにランドリールームを設けるには、大規模なリノベーションと配管工事が必要となり、コストも手間も大きいため、今でもそのままキッチンに設置されているという事情があります。
2. 建築的事情:配管と排水の利便性
現代的な新築住宅であっても、イギリスでは洗濯機がキッチンに設置されていることがよくあります。これは「水回りの集中化」が背景にあります。住宅の建築コストを抑えるため、水道管と排水管はなるべく一本化して設計される傾向があります。
バスルームとキッチンが上下階で真上・真下に配置されるのもこの理由によるもので、配管の距離を短くすることで建築コストやトラブルを抑える工夫がなされています。この考え方を延長すると、洗濯機を設置するにしても、水道・排水の近く、すなわちキッチンに設置するのが最も合理的であるということになります。
もちろん、バスルームやガレージ、廊下の収納スペースに置くことも理論上は可能ですが、水圧や排水能力に問題が生じたり、湿気対策が不十分でカビが発生しやすくなるなどのトラブルもあります。
3. ランドリールームという発想の希薄さ
日本やアメリカでは、洗濯専用のスペース(ランドリールーム)があるのが理想的とされますが、イギリスではそのような考え方は主流ではありません。特に都市部の住宅ではスペースに余裕がないため、「衣類を洗うのに特化した部屋」を設けるのは贅沢とされがちです。
イギリスでは「コンパクトで効率的な暮らし」が良しとされる傾向が強く、限られたスペースの中で複数の機能を果たす設計が重視されます。そのため、キッチンという”生活の中心地”に洗濯機があっても違和感を持たない文化が根付いているのです。
4. 音の問題:静音化よりも耐える精神?
イギリスの洗濯機がうるさいというのは、多くの在住者や旅行者が抱く共通の不満です。特に洗濯機のスピン(脱水)時の音は、アパート全体に響くような振動を伴うことすらあります。これは単純に機械の性能の問題であり、日本の洗濯機の静音性が高いことと対照的です。
なぜイギリスでは静音化が進まないのか? その理由のひとつは「消費者の優先順位」にあります。イギリスでは、洗濯機に対して「とにかく汚れが落ちること」「容量が大きいこと」「長持ちすること」などが重視される傾向があり、静音性はさほど優先されません。
また、キッチンに洗濯機があっても「音がしたらテレビの音量を上げればいい」という実利的な対応が取られることが多く、そこに対する大きな不満の声があまり上がっていないというのも、静音化が進まない要因と言えるでしょう。
5. 「他に置ける場所がありそうなのに」置かない理由
実際のところ、「キッチン以外にも洗濯機を置けそうな場所があるのに、なぜあえてキッチンに置いているのか?」という疑問は正当です。たとえば、廊下の収納スペース、バスルームの片隅、あるいは階段下のデッドスペースなども候補にはなり得ます。
しかし、以下のような理由からそれが実現しにくい現実があります:
- 排水の問題:洗濯機の排水には相応の勾配が必要で、設置場所によっては排水が逆流したり、流れが悪くなる可能性があります。
- 湿気・カビ対策:密閉されたスペースに洗濯機を設置すると、湿気がこもりやすく、カビの温床になります。
- 許認可の問題:イギリスでは住宅改築に厳しい規制があり、洗濯機の位置を変更するにも工事や許可が必要な場合がある。
- コンセントの規制:バスルーム内では法律で電気機器の設置に厳しい制限があるため、洗濯機のような大型家電をバスルームに設置するのは難しい。
こうした技術的・法律的な制約のため、「置けそうだけど置けない」というケースが多いのです。
6. 改善の兆しはあるか?
最近では、イギリスでも住宅のモダン化が進み、ランドリールームを備えた新築住宅や、洗濯機と乾燥機が一体化した静音モデルなどが登場しています。また、「ユーティリティルーム(Utility Room)」と呼ばれる、家事を一括で行う小部屋を設ける家庭も増えています。
ただし、これらは主に郊外の広めの家や新築物件に限られ、ロンドンなどの都市部では依然としてキッチン設置が主流です。つまり、しばらくの間は「イギリスの洗濯機=キッチン」という光景は続きそうです。
結論:不合理ではなく「文化と歴史」の結果
外から見ると非効率に思えるかもしれませんが、イギリスにおける「キッチンに洗濯機」は、文化、歴史、建築の都合が重なった結果なのです。日本人の感覚では理解しにくい部分もありますが、イギリスの人々にとってはごく当たり前の生活の一部であり、わざわざ変える理由もそれほど大きくないのです。
それでも、これからイギリスで生活しようと考えている人や留学・赴任を予定している人にとっては、この「音の問題」や「配置の違和感」に対する備えは大切です。もし気になる場合は、静音設計の洗濯機を購入する、ユーティリティスペースのある物件を探す、時間帯をずらして使用するなどの工夫が求められるでしょう。
イギリスの住宅事情や生活習慣は、一見すると「なぜ?」と感じることが多々ありますが、それらの背後には、数百年にわたる歴史と、変化をゆっくり受け入れる国民性があります。洗濯機の場所ひとつをとっても、それはイギリスという国を理解する上での、ひとつの窓とも言えるでしょう。
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