
電子書籍の普及、Amazonの台頭、そしてパンデミックの影響など、書店業界にとって逆風が吹き荒れる現代において、イギリス最大の書店チェーンであるWaterstones(ウォーターストーンズ)が生き残っているばかりか、むしろ勢いを取り戻していることは、世界的にも稀有な現象である。この記事では、なぜWaterstonesがこのようなデジタル時代にも関わらずイギリスで生き残り、愛され続けているのかを、文化的背景、戦略的経営、消費者心理、そして英国人の読書文化に焦点を当てて考察する。
Waterstonesとは何か
Waterstonesは1982年にティム・ウォーターストンによってロンドンで創業された書店である。その後、急速に拡大し、1990年代にはイギリスを代表する書店チェーンとしての地位を確立。2011年にロシアの億万長者アレクサンドル・マムートにより買収され、翌年にはジェームズ・ドーントをCEOに迎える。この経営交代が、Waterstonesの転換点となった。
1. 書店という場の再定義
Waterstonesの再生は、書店を単なる本の販売場所ではなく、「本と出会う体験の場」として再定義したことに始まる。ドーントCEOは、自らがかつて経営していた独立系書店「ドーント・ブックス」の哲学を持ち込み、チェーンでありながら地域性を尊重するアプローチを採った。各店舗は地域の特色を生かし、それぞれに異なる品揃えやディスプレイを持ち、地元に根ざした「個性ある書店」として機能している。
このアプローチは、消費者にとっての体験価値を飛躍的に高めた。例えば、カフェ併設の店舗では、読書会や著者イベントが頻繁に開催され、単なる買い物ではない“居場所”としての役割を果たしている。特にロンドンのピカデリー店や、オックスフォード、エディンバラなどの大型店舗では、文化的なランドマークとしての地位を築いている。
2. 独自の品揃えとキュレーション
Waterstonesでは、各店舗の書店員にある程度の裁量が与えられており、地域の読者に応じた独自の品揃えを構築することが可能である。これはAmazonのアルゴリズム的レコメンデーションとは対照的であり、人的な「選書の目利き」が活かされる。
さらに、書店員の手書きによる「おすすめコメント(Shelf Talkers)」は、来店者にとって信頼性のあるガイドとして機能している。読者はこのコメントを通じて、思いがけない本との出会いを楽しむことができるのだ。
3. 英国人の読書文化とハードカバーへのこだわり
イギリス人は歴史的に「読書家」として知られ、読書が上流階級の教養の一部とされてきた背景がある。そのため、単に内容を読むだけでなく、「本そのもの」を愛する文化が根強い。特にハードカバー(上製本)は、贈答用としても重宝されるほか、所有欲を満たすコレクターズアイテムとしての価値がある。
Waterstonesはこの点を巧みに捉え、限定版や特装版のハードカバーを積極的に展開している。著名作家の新作が発売される際には、Waterstones専売エディションとして表紙デザインが異なる特装本を販売し、それが購買動機の一つになっている。これにより、「紙の本だからこそ得られる満足感」を再認識させているのだ。
4. デジタルとの共存戦略
WaterstonesはKindleやKoboといった電子書籍リーダーとの正面衝突を避け、紙の本の体験価値に集中する戦略を採った。一時期AmazonのKindleを店舗で販売していたが、それが消費者を電子書籍へ誘導するだけであると判断し、数年後には販売を中止。
代わりに、Waterstonesのウェブサイトは紙の本の注文を中心とした設計に刷新され、オンライン注文と店舗受け取りを融合させる「クリック・アンド・コレクト」などのサービスを充実させた。デジタルの利便性と紙の本の魅力をハイブリッドに提供している。
5. 地域コミュニティとの接続
Waterstonesは、地元の学校、図書館、作家との連携を通じて地域コミュニティと深く関わっている。子ども向けの読書プログラムや、地元作家によるトークイベント、サイン会などを定期的に開催し、地域住民の「文化的ハブ」としての機能を果たしている。
このような草の根的な活動により、書店が単なる商業施設ではなく、地域社会に不可欠な存在として認識されているのだ。
6. パンデミック後の再評価
COVID-19パンデミックによるロックダウン中、書店は一時的に営業を停止せざるを得なかったが、多くの読者が紙の本を「生活の支え」として求めたことで、オンライン注文は急増した。Waterstonesはこの需要に素早く対応し、配送体制を強化。
さらに、再開後には感染対策を徹底した上で、あらためて書店という物理空間の価値が見直された。長期間の隔離を経て、人々は「リアルな場で本と出会う喜び」を再認識したのである。
結論:紙の本の未来は「体験」にあり
Waterstonesの生存と復活は、単なる企業努力にとどまらず、イギリスという国の文化的基盤と読者の習慣を的確に捉えた結果である。本という「物質」が持つ触感、視覚的魅力、所有の喜びを再発見させ、それを最大限に引き出す空間とサービスを提供している点が、最大の成功要因だ。
現代の小売において、「何を売るか」よりも「どのように売るか」が問われる時代において、Waterstonesはその最前線に立つ存在である。英国人の読書文化、紙の本への愛、地域とのつながりという三位一体の価値を維持する限り、Waterstonesの灯は消えることはないだろう。
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