
最近、日本のメディアで「カナダの麻薬汚染が深刻化」といったニュースをよく目にするようになった。街中にドラッグユーザーが溢れ、公共の場で堂々と薬物を使用している、というような衝撃的な映像や写真も報道されている。そして、奇妙なことに、こういった報道がなぜかG7の開催時期と重なる。まるで世界の注目がカナダに集まるこのタイミングに合わせて、「カナダの闇」を暴こうとでもしているかのようだ。
だが、言わせてもらえば、これは「今に始まったことではない」。現地に少しでも住んだことがある人間からすれば、この“麻薬汚染の現実”は少なくとも20年前にはすでにあった。むしろ「今さら何を言っているんだ」という気持ちさえ湧いてくる。私自身がその“現実”を目の当たりにしたのは、2000年代前半、ちょうどバンクーバーに2ヶ月ほど滞在していた頃のことだった。
バンクーバーに広がっていた異常な“日常”
私が滞在していたのはバンクーバーの比較的中心部。語学学校に通いながら、自転車であちこちを走って街の雰囲気を味わう、そんな生活をしていた。その頃から、すでにチャイナタウンの近辺、特に「イースト・ヘイスティングス通り」周辺は「薬物ユーザーのたまり場」として知られていた。昼間でも、道端には朦朧とした表情の人々がたむろしていて、路上で注射器やストローのような器具を使って何かを吸引している光景が、まるで“日常風景”のように存在していたのだ。
しかもそれは、裏通りや夜中の話ではない。大通りの交差点付近、人通りの多い場所でも、彼らは堂々とその“行為”をしていた。地元の人たちも見て見ぬふりをしているというか、もはや“慣れ切っている”ような空気が漂っていたのを覚えている。
無秩序に見えて、構造化された「ドラッグ経済」
当時、バンクーバーの一部エリアではすでに「ドラッグ経済」がしっかりと“組織化”されていた印象があった。売人がどこに立っていて、どんな時間帯にどう動いているのか――観察していればパターンが見えてくる。中には、自転車で巡回しながら客を探している若い売人もいたし、公園のベンチに座って静かに手渡す者もいた。まさに、街そのものが一つの“市場”のようだった。
さらに驚いたのは、そうした取引が行われる場所のすぐ近くに、普通のカフェや住宅、観光地も存在していたことだ。つまり、健常な日常と、崩壊しかけた現実が、同じ通りの左右に同居していたのである。この“共存”こそが、バンクーバーの“闇”の根深さを物語っている。
カナダが抱える“優しさの副作用”
カナダという国は、一般的に“寛容で優しい国”というイメージを持たれている。移民にも比較的開かれており、多様性を尊重する姿勢は世界的に評価されてきた。だが、この“優しさ”が時として“無関心”や“無力感”に変わる瞬間がある。
ドラッグ中毒者への対応もその一つだ。社会全体が「彼らもまた被害者」「刑罰よりもケアを」という立場を取ってきた。そのため、カナダの一部都市では“安全に薬を使用できる場所(Safe Injection Site)”が公認されている。これは一見すると人道的だが、裏を返せば「麻薬の存在を社会が公認している」状態でもある。
この政策が実際にどれほどの効果を上げているのかについては意見が分かれる。だが少なくとも、街の景観や治安が「良くなった」と感じる地元住民は少数派だろう。
今さらメディアが騒ぐ“違和感”
だからこそ、今回のようにG7にあわせて「カナダの麻薬問題が深刻だ」と騒ぎ立てるメディア報道には、正直なところ違和感を覚える。この問題は、つい最近になって噴き出した“新しい事件”ではなく、少なくとも20年以上にわたって存在してきた“慢性的な病”だ。
私が滞在していた頃ですら、その“兆候”は明らかだった。むしろ「なぜ今までそれを無視してきたのか」と問いたくなる。そして何より、今回の報道の仕方にはどこか“他人事”的な距離感がある。まるで「海外で起きている奇妙な出来事」として扱っているようで、現地で暮らす人々の痛みや、日々直面している問題の本質には踏み込んでいない。
本当の問題は「制度の継続的な黙認」
20年前から変わらず存在するこの状況は、ある意味で「制度がこれを許容してきた結果」とも言える。医療・福祉・法制度が「現実的対応」を追求した結果、いつの間にかそれが“常態化”してしまった。そして市民の側も「変えられないもの」として半ば諦めてしまっている。
今こそ問うべきは、「このままでいいのか?」という本質的な問いだ。単なる一過性のイベントとしてG7にあわせた“問題提起”をしても、何も変わらない。20年、いや30年単位で続くこの現実を、どうやって終わらせるのか。そのためのビジョンと行動が、今こそ必要なのだ。
最後に──「変わっていない」という事実の重み
「カナダの麻薬問題は深刻だ」という言葉は、確かに正しい。しかしそれは、2025年の今に限った話ではない。少なくとも20年前にはすでに存在し、今も変わっていない。変わっていないということ、それ自体がどれほど恐ろしいことか。
私がバンクーバーの街を自転車で駆け抜けた20年前、その光景を見て「これは普通ではない」と感じた。でも、それを「一時的な問題」と受け流していた。そして今、同じ街に同じような光景が存在しているという現実に、私は戦慄すら覚える。
もはやこれは“外国の話”ではない。日本でも薬物の問題は確実に深刻化しつつある。だからこそ、私たちはこのカナダの現実から目を背けてはいけない。そして何より、単なる“ショック映像”として消費するのではなく、その背景にある「社会の継続的な無策」と「構造的な許容」にこそ、鋭い視線を向けなければならない。
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