ロンドンにおける自転車ブームと交通安全教育の空白地帯――巻き込み事故が増加する背景とは

自転車人口の急増:都市が抱える新たな課題

近年、イギリス・ロンドンでは自転車を利用する人々の数が急増している。都市部の交通渋滞の深刻化や、ガソリン代の高騰、さらには地下鉄・電車・バスといった公共交通機関の運賃の相次ぐ値上げといった背景がその一因である。ロンドン市交通局(TfL)のデータによれば、2020年以降、自転車通勤や通学を選ぶ市民の数は毎年増加傾向にあり、ピーク時の主要幹線道路では自転車が全車両の約4割を占める区間も存在する。

このような自転車利用の拡大は、環境問題への意識の高まりや、COVID-19以降の「密」を避ける生活スタイルの変化とも密接に関連している。しかし、こうしたポジティブな動向の裏には、ある重大な問題が横たわっている。それは、自転車に関する交通安全教育の「空白」である。

郷愁なき自転車文化と、その危険性

日本においては、小学校や中学校で交通安全教室が開かれ、警察官や専門講師が児童に対して「自転車は軽車両であり、歩行者ではない」ということを繰り返し教える光景が当たり前である。ヘルメット着用の重要性、横断歩道の渡り方、車両との距離の取り方、さらには「巻き込み事故」に注意するよう指導される。

しかし、イギリス、特にロンドンにおいては、こうした体系的な自転車教育の機会が極めて少ない。学校教育の中で自転車安全に特化したカリキュラムは十分に整備されておらず、多くの子どもや若年層は家庭内の経験やインターネットの情報を頼りに、いわば「独学」で道路を走っている状態である。

このような状況の中で、特に目立って増加しているのが「巻き込み事故」である。これは、自動車が左折(イギリスは左側通行)しようと減速した際、後ろを走っていた自転車が進行を続け、左折する車両に接触してしまうケースである。日本やオランダ、デンマークなど自転車先進国では、こうした事故のリスクについて早期教育が徹底されており、自転車の側が一時停止したり、車両の動きを予測して避けたりする習慣が身についている。

だがロンドンでは、そのような郷愁、つまり「自転車とはこういう乗り物であり、こうすれば安全である」という文化的・教育的な蓄積が存在しないため、特に初心者や子どもたちが事故に巻き込まれやすくなっている。

自転車事故のデータが示す深刻な実態

ロンドン市警察が公表した統計によると、2023年には自転車関連の交通事故件数が前年比で18%増加しており、うち約40%が「車両との接触」に起因するものであった。さらにその中でも、交差点や左折ポイントでの巻き込み事故が多くを占めている。特に悲惨なケースでは、10代の学生が通学中にバスの左折に巻き込まれ、命を落とすという事故も報告されている。

問題なのは、こうした事故が「自転車に乗る人のマナーや注意不足」として片付けられがちである点だ。確かに自転車利用者側にもルール違反が見られることは否めない。だが、そもそも安全に乗るための教育がなされていなければ、事故は「起こるべくして起きる」ものとなってしまう。

自転車教育が欠如する制度的背景

なぜイギリスでは自転車の交通安全教育が広まっていないのか。その背景には、いくつかの制度的・文化的な要因が存在する。

まず第一に、イギリスでは自転車が「スポーツ」や「趣味」の一環として捉えられる傾向が強く、通学・通勤手段としての社会的認知は比較的新しいものである。そのため、自転車を日常的に使うことに対する法整備や教育の必要性が後回しにされてきた歴史がある。

第二に、学校教育の中に「交通安全」という明確な枠組みが存在しない。イギリスの教育カリキュラムには市民教育の一環としての「PSHE(Personal, Social, Health and Economic Education)」という科目が存在するが、その中で交通安全が扱われることは極めて稀であり、多くは家庭や地域に任されているのが現状である。

第三に、自転車利用が自由である一方、ヘルメットの着用義務すら存在しないという法制度の緩さも、事故の増加に拍車をかけている。義務がなければ、大人も子どもも着用しないのが現実であり、事故の際の致命率が高まるのは言うまでもない。

解決の糸口――求められる政策と意識改革

このような事態に対応するためには、いくつかの方策が考えられる。

まず第一に、学校教育の中に自転車安全教育を組み込む必要がある。すでに一部の自治体では「Bikeability(バイカビリティ)」と呼ばれる自転車トレーニングプログラムが導入されており、子どもたちに基本的な交通ルールを教える試みがなされている。これを全国規模に拡大し、初等教育段階での必修カリキュラムとすることが急務である。

第二に、都市設計レベルでの取り組みも不可欠だ。オランダやデンマークのように、自転車専用レーンの整備や交差点での自転車優先信号の導入、死角を減らすためのミラー設置義務などを進めることで、物理的に事故を防ぐインフラを整える必要がある。

第三に、市民意識の改革も求められる。車を運転する側も、自転車の存在を常に意識し、特に左折時には後方確認やサイドミラーのチェックを徹底すべきである。同時に、自転車側にも「見られていない」可能性を前提に行動する慎重さが求められる。

終わりに――自転車文化の「土壌」を耕すために

ロンドンという巨大都市がこれから本格的に「自転車都市」へと変貌を遂げるのであれば、それにふさわしい教育と制度、インフラの整備が必要不可欠である。今後のイギリスにおいて、単なる利便性やエコの観点だけでなく、命を守るための視点から、自転車に関する文化的な基盤――すなわち「郷愁」を持った自転車社会を築くことが求められている。

それは決して、すぐにできることではない。だが、今、巻き込み事故で命を落とす子どもたちを減らすために必要な一歩であることは間違いない。

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