イギリスはEU離脱で失ったものを取り戻せるのか?

「Eゲート」と「ペットトラベル」から浮かび上がるブレグジットの代償と現実

2020年1月、イギリスは正式に欧州連合(EU)からの離脱を果たした。2016年の国民投票で過半数が離脱を支持して以来、紆余曲折の交渉の末にようやく実現した「ブレグジット」は、国内外で大きな波紋を呼んだ。

当時、離脱派は「主権の回復」「移民の制御」「経済の自由化」といった理想を掲げたが、あれから数年が経った今、そのビジョンは現実とかけ離れたものになりつつある。

経済成長は鈍化し、労働力不足や物価高騰が深刻化し、国際的な影響力は明らかに後退している。そして何より、国民生活の利便性や自由が失われたことに、多くの人々が困惑し始めている。

そんな中、イギリス政府は「EUとの関係改善」という名のもとに、いくつかの譲歩的な動きを見せている。その象徴とも言えるのが、「Eゲートの相互利用」と「ペットトラベル制度の再導入」だ。本稿ではこの二つの象徴的事例を出発点として、ブレグジット後のイギリスの現実と、再びEUにすり寄るかのような政府の動きの裏にある苦悩と矛盾を掘り下げていく。


「Eゲート」再開要請に込められた焦燥:片思いの国境管理

「Eゲート」とは、自動顔認証システムによる入国審査を指し、スムーズで効率的な国境通過を可能にする技術だ。現在、EU市民はイギリス入国時にこのシステムを使用できるが、逆にイギリス市民がEU入国時に同様の扱いを受けることはない。

2023年以降、イギリス政府はEUに対し、イギリス国民もEU側でEゲートを使えるようにする「相互利用」を要請している。目的は明確だ。ビジネスや観光目的で頻繁に渡航するイギリス市民の利便性を高め、混雑する入国審査場の負担を軽減するためだ。

しかし、この提案はEU側にとって非常に扱いにくいものである。なぜなら、イギリスはすでに「第三国」となっており、EUの統一的な審査基準や安全保障の枠組みからは外れているからだ。

見返りを求めるEU:情報共有という重い代償

EUがEゲートの相互利用を認めるとすれば、その代償として必ず「何か」を要求するだろう。代表的な条件として考えられるのは、以下のようなものだ:

  • シェンゲン情報システム(SIS)への部分的な再接続
    → これは犯罪歴、出入国記録、テロ関連情報などを含む欧州域内の重要な情報共有ネットワークである。
  • 移民管理における連携強化
    → 難民・移民の情報を共有することで、テロや越境犯罪への対応を迅速化する。
  • データ保護とプライバシー基準の統合
    → GDPR(一般データ保護規則)と整合性の取れたデータ管理体制の構築。

これらの要求は、「主権の回復」を掲げてブレグジットを推進したイギリス政府にとって極めて厄介だ。要するに、「便利さを取り戻すためには、再びEUのルールに一部従わなければならない」というジレンマに直面しているのである。


ペットトラベルの再導入:飼い主より先に犬猫がEUに戻る日

もう一つ注目されているのが、ペットトラベル制度の復活である。かつてイギリスがEU加盟国だった頃、共通の「ペットパスポート制度」によって、犬や猫をほとんど手続きなしに他のEU諸国へ連れて行くことができた。

しかしブレグジット後、この制度は無効となり、ペットのEU渡航には事前の健康診断、狂犬病予防接種証明、輸出健康証明書など、複雑で高額な手続きが必要となった。愛犬家・愛猫家たちからは、「不便すぎる」「動物にストレスを与える」との声が相次いでいる。

実はこれは「動物福祉基準」の問題

ペットトラベルの制度を再構築するには、EUが求める動物検疫制度や食品衛生規制にイギリスが準拠する必要がある。つまり、家畜や動物由来製品に関する監督体制もEU基準と合わせる必要があるのだ。

この点でも、イギリス政府は「ルールは要らないが、便利さは欲しい」という都合のよい立場を取りがちである。だが、それは国際的な交渉の場では通用しない。「自由な移動」は、「共通のルール」という土台の上に初めて成り立つものである。


労働党・スターマー氏の戦略:曖昧な中道が生む不信感

現在のイギリス政界において、EUとの関係改善を積極的に進めようとしているのが、労働党のキア・スターマー党首である。彼は「再加盟は目指さないが、関係改善は必要」という中間的な立場を取り続けている。

しかしこれは、国民にもEU側にも不信感を与える立場でもある。

  • 国民からは:「それなら最初から離脱しなければよかったのでは?」という疑問。
  • EU側からは:「ルールには従わないのに、利便性だけ求めるのか?」という警戒。

このようなあいまいな姿勢が続く限り、EUとの建設的な関係構築は困難だ。今、イギリスに求められているのは、都合の良い幻想を捨て、現実と向き合った上での誠実な「交渉」である。


数字で見るブレグジットの代償:GDP、投資、人材流出

ブレグジットから約4年。その経済的インパクトは、次のように数値にも表れている:

  • GDPの成長率はG7で最も低迷
    → 2023年にはわずか0.2%成長にとどまり、他の先進国と比較しても著しく低い。
  • 外国直接投資(FDI)の減少
    → EU単一市場からの離脱により、多国籍企業が拠点をアムステルダムやフランクフルトに移転。
  • 人手不足の深刻化
    → 農業、介護、建設、物流業界などで深刻な労働力不足が発生。EU出身労働者の減少が主因。
  • 物価上昇と生活コストの高騰
    → 関税・通関手続きの増加により輸入コストが上昇。食品や日用品が高騰し、低所得層を直撃。

これらの数字が示すのは、「主権の回復」と引き換えに失ったものの大きさである。


結論:いまイギリスが直面する「静かな屈服」

イギリスが再びEUとの関係改善を模索する姿勢は、一見すれば前向きなように見える。しかし、その実態は「かつて捨てた恋人に、友達として戻りたい」と懇願するような、どこか滑稽で切ない構図にも見える。

本当に「国益」を考えるのであれば、スターマー氏もスナク首相も、国民に率直に説明する責任がある。「EUなしでは立ち行かない現実」を認め、かつての幻想を断ち切る時が来ているのではないだろうか。

便利さには、必ず代償がつきまとう。そして、ブレグジットとは、その代償を現実として受け入れることでもあったはずだ。にもかかわらず、今やイギリスは、かつて自ら壊した橋を慌てて再建しようとしている。

果たして、その橋の先に待つのは、再び手を取り合う未来なのか、それとも、過去の選択のツケを払い続ける未来なのか――。

イギリスは、今まさに歴史の岐路に立たされている。

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