
イギリス、特にイングランドとウェールズにおいて、いま最も人々の命を奪っている病気が「虚血性心疾患(Ischaemic Heart Disease:IHD)」であることをご存知でしょうか。2023年には、この疾患が原因で57,895人が亡くなっており、全体の死亡者数の約10%を占めました。これは、がんや脳卒中などの他の疾患を上回る割合です(出典:Office for National Statistics)。
このように私たちの生活に深く関係している虚血性心疾患ですが、その実態や背景、予防法について正しく理解している人は意外と多くありません。本記事では、虚血性心疾患がイギリス社会にもたらしている影響や、個人・社会レベルでの対策について、8,000字にわたり詳しく解説します。
虚血性心疾患とは何か?
虚血性心疾患とは、心臓の筋肉(心筋)に酸素や栄養を供給する「冠動脈」が狭くなったり、詰まったりすることで、心筋への血流が不足し、心臓の機能が低下してしまう病気の総称です。具体的には以下のような病態が含まれます。
- 狭心症:一時的な血流不足による胸の痛みや圧迫感
- 心筋梗塞:冠動脈が完全に詰まり、心筋の一部が壊死する重篤な状態
- 突然死:急性心筋梗塞などによる心停止
これらは、放置すれば命に関わるだけでなく、後遺症を残すことも多く、生活の質(QOL)を大きく低下させます。
統計から見る現状:男性に多い致死的疾患
虚血性心疾患は特に中高年の男性に多く見られるという特徴があります。2023年のデータによると、男性の死亡原因として最も多いのがこの疾患であり、女性よりも顕著に高い傾向を示しています。
また、年齢別では65歳以上の高齢者に多いですが、近年は生活習慣の悪化により、40代や50代で発症するケースも増加しています。これは社会的な働き盛り世代への影響も大きいことを意味します。
虚血性心疾患による死亡率が再び増加する背景
医療技術の進歩や予防医療の普及により、2000年代初頭には死亡率が大きく減少していました。しかし、近年ではその減少傾向が鈍化し、場合によっては再び増加に転じる兆しすら見えています。その要因を見ていきましょう。
1. 肥満と2型糖尿病の増加
イギリスでは成人の3人に1人が肥満という深刻な状況であり、これが糖尿病や高血圧、脂質異常症といった虚血性心疾患のリスク因子を増大させています。特に加工食品や高脂肪・高糖質の食事が日常化していること、運動習慣の欠如が問題です。
2. 高血圧とコレステロールの管理不足
高血圧は「サイレントキラー」と呼ばれるように自覚症状が乏しく、放置されやすい疾患です。イギリスの成人の約3割が高血圧とされながら、そのうち多くが未診断または治療未実施という現状があります。高コレステロール血症も同様です。
3. 喫煙・アルコールなどの嗜好習慣
イギリスでは喫煙率は減少傾向にありますが、依然として一定数の喫煙者が存在し、特に低所得層に偏在しています。また、アルコール消費量も多く、過剰摂取による心血管リスクが軽視されがちです。
4. 医療アクセスの地域差・社会格差
医療制度は国民保健サービス(NHS)により支えられていますが、地域によって医療資源の偏在が見られます。特に地方部や低所得地域では、予防医療へのアクセスが困難であるため、早期発見や治療が遅れる傾向があります。
社会的・経済的影響
虚血性心疾患は、個人の健康被害だけでなく、社会全体にも大きな負担をもたらしています。例えば、
- 労働力の損失:働き盛りの人が突然亡くなる、あるいは長期的なリハビリが必要になると、労働市場にも影響を与えます。
- 医療費の増大:虚血性心疾患の治療には、高度な医療機器や長期的な投薬が必要で、NHSへの経済的負担も大きい。
- 介護リソースの圧迫:心筋梗塞の後遺症で日常生活に介助が必要になる人も多く、介護業界への影響も無視できません。
虚血性心疾患の予防と対策
では、私たちはこの重大な疾患にどう向き合えばよいのでしょうか。予防可能な疾患であるからこそ、個人と社会が連携して対策を講じることが重要です。
1. 生活習慣の見直し
- 食事:野菜や果物、全粒穀物を多く取り入れ、飽和脂肪酸やトランス脂肪酸を避ける
- 運動:週150分以上の中等度運動が推奨されています
- 禁煙・節酒:喫煙は即時の中止が推奨され、アルコールは週14ユニット以下が目安
2. 定期健診の受診
高血圧・高血糖・高コレステロールなど、リスク因子は血液検査や血圧測定で早期発見が可能です。NHSでは40歳以上に無料の健康診断を提供しており、これを活用することが非常に有効です。
3. 医療アクセスの改善
地方在住者や低所得層に向けたモバイルクリニック、遠隔診療(telemedicine)の拡充も重要です。また、医療者による地域訪問やアウトリーチ活動も、潜在患者の掘り起こしに効果を発揮します。
4. 教育・啓発キャンペーンの強化
学校教育や職場での健康セミナー、公共交通機関での啓発ポスターなど、メディアやコミュニティを巻き込んだ情報発信が鍵となります。
まとめ:心臓病から身を守るには、社会と個人の連携が不可欠
虚血性心疾患は、イギリスにおける「最大の死因」という深刻な位置づけにありますが、早期発見と予防によって多くの命が救われる可能性を持つ疾患でもあります。
重要なのは、「発症してから治療する」のではなく、「発症させないようにする」ことです。そしてそのためには、私たち一人ひとりの生活習慣の見直しとともに、医療制度の改善や教育の強化など、社会全体の取り組みが不可欠です。
これからの未来、心臓病で命を落とす人が一人でも減るために、いま何ができるのか。この記事がその第一歩になることを願っています。
参考文献:
- Office for National Statistics (UK)
- NHS Digital
- British Heart Foundation
- World Health Organization (WHO)
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