崩壊する英国の精神保健システム──見捨てられる心の叫び

序章:静かなる危機

英国において、精神疾患に悩む人々が今、静かに、しかし確実に置き去りにされている。制度の崩壊、予算の削減、専門家の人材不足、そして社会の無理解。それらが複雑に絡み合い、深刻な人道的危機が進行中である。現場の支援者たちは限界に達しており、患者やその家族は孤立と絶望の中にある。かつて誇り高く構築された英国の国民保健サービス(NHS)の精神保健部門は、今や瀕死の状態だ。

第1章:数字が示す現実

統計によれば、英国では4人に1人が何らかの形で精神疾患を経験する。にもかかわらず、精神保健サービスの資金は他の医療分野に比べて著しく少ない。2012年から2022年にかけて、物理的な病気への支出は一貫して増加してきた一方で、精神保健への投資は停滞、あるいは実質的な減少を続けている。特に地方では予算削減が顕著で、診療所の閉鎖、専門職の削減、入院施設の不足が常態化している。

第2章:若者と子どもへの影響

最も深刻な影響を受けているのは、子どもと若者たちである。子どもの精神健康支援サービス(CAMHS)は常に需要を上回る需要にさらされており、診断を受けるまでに半年以上待たされる例も珍しくない。待機中に症状が悪化し、自傷行為や自殺未遂に至るケースも増加している。学校現場では教員がカウンセラーの役割を担わざるを得ず、本来の教育活動に支障が出ている。

第3章:成人と高齢者への無関心

成人、とくに高齢者に対する精神保健サービスも脆弱だ。認知症、うつ病、不安障害を抱える高齢者が増える一方で、訪問看護や専門相談の機会は激減している。家庭医(GP)への依存が高まるが、GPもまた多忙で精神保健の専門的対応には限界がある。通院困難な高齢者は見捨てられがちで、孤独死や放置の問題が深刻化している。

第4章:人手不足とバーンアウト

NHSの精神保健部門で働く職員たちは、慢性的な人手不足と過重労働に苦しんでいる。看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーの離職率は高く、特に若手人材の定着が困難だ。残された職員は激務と精神的ストレスで燃え尽き症候群に陥りやすく、それがさらなる人材流出を招いている。この悪循環の中で、患者一人ひとりへのケアはますます形骸化していく。

第5章:制度の迷路に迷う当事者

多くの精神疾患患者やその家族は、支援を求めても制度の迷路に翻弄される。紹介状が必要、申請書類が煩雑、地域によって受けられるサービスが大きく異なるなど、形式的な障壁が多い。行政の対応も画一的で、柔軟な支援が期待できない。特に移民やマイノリティの患者は、言語や文化の壁も加わり、さらなる周縁化に苦しんでいる。

第6章:民間への依存と格差の拡大

公的なサービスが機能不全に陥る中、裕福な層は民間のカウンセリングやプライベートクリニックに活路を見出している。しかし、その費用は高額であり、多くの一般市民には手が届かない。こうして精神医療の二極化が進行し、経済的な格差がそのまま健康格差へと直結している。金のある者だけがケアを受け、貧しい者は放置される現実がここにある。

第7章:希望の芽と市民の声

それでも、希望の芽はある。地域コミュニティや慈善団体による草の根の支援活動が静かに広がっている。オンラインでのピアサポートグループ、当事者による啓発活動、精神疾患に対するスティグマをなくすキャンペーンなど、市民レベルでの取り組みが社会を少しずつ動かしている。政府に対して制度改革と予算増額を求める請願やデモも増えており、危機的状況に警鐘を鳴らす動きは確かに存在する。

結論:放置という名の暴力に終止符を

精神疾患の問題は個人の責任ではなく、社会全体で取り組むべき公共の課題である。今の英国においては、その基本的認識さえ危うい。支援を必要とする人々が声を上げる力を奪われ、沈黙の中で苦しんでいる。制度の再構築と支援の充実は急務であり、それは単なる医療の話ではなく、人間の尊厳と権利を守るための闘いである。放置とは、最も残酷な形の暴力である。この暴力を終わらせる責任が、いま私たちすべてに問われている。

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