「借り逃げ」の現実とヨーロッパ的良識:イギリスのコロナ支援金制度に見る制度設計の脆弱性とその代償

はじめに

善意の制度が裏目に出るとき 2020年、新型コロナウイルスのパンデミックが世界を襲ったとき、各国政府は経済崩壊を食い止めるべく前例のない財政出動に踏み切った。イギリスも例外ではなく、特に中小企業を支援するための「バウンス・バック・ローン・スキーム(Bounce Back Loan Scheme)」は、そのスピードと規模の両面で注目を集めた。この制度は、最大50,000ポンドを無担保・無利子、しかも3年間の据え置きで貸し付けるというもので、まさに緊急時の特例措置だった。しかし、こうした”善意”の設計が想定外の結果を招き、イギリス政府にとって数十億ポンドに上る損失をもたらすことになる。

制度の概要と理念

迅速な支援の代償 バウンス・バック・ローンの導入に際し、イギリス政府の基本方針は「スピードを最優先する」ことだった。手続きはオンライン完結で、企業の財務資料の提出すら求めず、申請者の自己申告をもとに融資が実行される。これにより、多くの中小企業が危機を乗り越える資金を素早く手に入れることができたのは事実である。だが、その裏にはリスクが潜んでいた。信頼に基づく制度設計が、悪意を持つ者によって簡単に崩される可能性があるという根本的な問題である。

国境を越えたモラルハザード とりわけ問題となったのは、外国人による不正利用の増加である。イギリスに一時的に法人を登記しただけの人物や、パンデミック中に突如として事業登録を行った者が大量に制度を利用し、融資を受け取ると同時に国外へ出て行った。中には「イギリスから出れば返済義務は実質的に消える」といった情報がSNSやフォーラムを通じて共有され、事実上の「借り逃げ」が横行した。

このような事例は、国際間の債務回収の困難さを浮き彫りにする。イギリス国内であれば、資産差し押さえなどの法的措置が取りやすいが、国外に出た個人に対してはその執行力が大きく制限される。法的手続きも煩雑で時間がかかり、費用対効果の面からも実効性が乏しい。

制度の数字的な被害とその背景 政府の2023年の発表によると、バウンス・バック・ローンによって貸し出された総額は約470億ポンド。このうち、少なくとも90億ポンドが不正受給または返済不能と見なされている。これは英国のGDPの約0.4%に相当し、国家財政に与える影響は決して小さくない。

加えて、ローンを受けた企業の中には、当初から返済する意志のない者も多かったとされる。虚偽の売上申告や、実体のない企業の設立など、制度の抜け穴を突いた行為が横行していた。融資後の監査体制が不十分だったことも、被害拡大の一因となった。

ヨーロッパ諸国との比較

良識と制度のバランス では、同様の支援制度を導入した他のヨーロッパ諸国ではどうだったのか。例えばドイツは”Soforthilfe”と呼ばれる小規模企業向けの緊急支援金を設けたが、申請には税務申告のコピーや営業許可証の提示が求められた。また、フランスでも政府系金融機関を通じた審査が必須で、身元確認と財務実態の把握が制度の中核を成していた。

ヨーロッパ大陸の国々では、支援の迅速性と同時に「制度の堅牢性」も重視されていた。それは、単に不正を防ぐというだけでなく、制度そのものへの信頼を損なわないためでもある。ヨーロッパ社会では、公共制度の信頼性が社会的連帯の土台であり、その破壊は社会的コストとして極めて高くつくという認識が根強い。

倫理観の共有という視点 ここで問われるべきは、単なる制度設計のミスだけではない。社会全体として「何が公的支援に対する適切な姿勢か」という倫理的コンセンサスの有無である。ヨーロッパでは、社会保障や公共財政に対して高い倫理的責任感が求められる風土がある。それは、福祉国家モデルに共通する価値観のひとつであり、自己責任と社会的責任のバランスを尊ぶ文化の表れでもある。

一方で、こうした価値観を共有しない層が制度にアクセスしたとき、想定外のリスクが表面化することになる。グローバル化が進む現在、制度の設計者は「国内的な常識」が必ずしも通用しないという現実に目を向ける必要がある。

再発防止と今後の課題 バウンス・バック・ローンの失敗は、イギリスだけでなく、どの国にとっても教訓となる。特に、緊急時における制度設計のジレンマ──スピードと精度のバランス──は、今後の政策形成において避けて通れない課題だ。

今後、再びパンデミックや経済危機に直面する可能性は否定できない。その際には、以下のような視点が重要になるだろう。

  1. 国際的な協調による不正対策(例えばEU域内での情報共有)
  2. 支援対象者の身元と事業実態の明確化
  3. 支援後のモニタリング体制の強化
  4. 公共支援に対する倫理教育の強化

おわりに

信頼という社会資本 国家による支援とは、本質的には「信頼」に基づく契約である。支援を受けた側は、将来的な返済や納税によってその信頼に応えるべき存在である。制度を悪用する行為は、その信頼関係を根底から揺るがす行為に他ならない。

今回の「借り逃げ」問題は、制度設計上の甘さだけでなく、信頼社会を支える倫理観の不在が招いた結果でもある。ヨーロッパ的な良識──すなわち、「社会の一員としての責任」を自覚し行動すること──がいかに重要であるかを、改めて私たちに教えてくれている。

私たちが次に制度を作るとき、その教訓をどう生かすかが、未来の社会を決定づける鍵となる。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA