こんにちは、イギリス在住のマリコです。今回は、ちょっぴり野心的な(でも現実的な)日本人女性に向けて、イギリスで“玉の輿”を狙う際に知っておきたい、ちょっとしたコツとカルチャーについてお話しします。 テーマはズバリ、「イギリス人のお金持ちの見分け方」! 実はイギリスという国、表面的にはとても質素で、控えめな人が多く、「お金持ち」がひと目でわかりにくい国でもあります。でも、だからこそ、知っている人だけが得をするちょっとした“兆候”や“合図”があるんです。 そして、タイトルにもある通り、イギリスにおいて“歯”はある意味で最大のステータスシンボル。日本人が思っている以上に、歯=ライフスタイル=お金 なんです。 それでは、そんなイギリスのリアルな生活の裏側から、「玉の輿候補」を見分けるヒントをこっそり伝授していきます。 1. 「歯」が命!? 実はイギリスこそ歯並び大国 まず最初に伝えたいのが、イギリスと“歯”の話。 え? イギリス人って歯並び悪いイメージあるけど?という声が聞こえてきそうですね。 でもそれ、実はもう古いイメージなんです。 近年のイギリスでは、歯並びやホワイトニングへの意識が急上昇。特に富裕層や中流階級以上では「歯が汚い=育ちが悪い、収入が低い」と判断されることも。 なぜか? イギリスの歯科治療は、NHS(国民健康保険)ではカバーされない私費治療がほとんど。インプラントや矯正は数十万円から数百万円単位。つまり、「歯並びが綺麗=継続的に高額な治療費を払える=裕福」というロジックが成り立つのです。 なので、玉の輿狙いの第一ステップは、“歯を見ろ”! 笑ったときに、自然で整った歯並び、白さ、そして差し歯感のないナチュラルな美しさがあれば、それは「育ちが良い」「余裕がある」サインです。 2. 靴は黙って本当の階級を語る 次に注目してほしいのが「靴」です。 イギリス人男性は、服よりも靴にこだわる人が多いです。そして、ここがポイントなのですが、お金持ちは派手なブランドではなく、“質の良い”クラシックな革靴を履いています。 たとえば: などの老舗ブランド。ロゴが前面に出ることはなく、むしろ控えめ。しかし見れば分かる人には分かる「一流」。 靴が磨かれているか? 靴底は手入れされているか?細かいところこそ、裕福な家庭のしつけが出るのです。 3. “オーバーアクション”をしない人ほど要注意! アメリカや中東のお金持ちと違って、イギリスの富裕層はとにかく「控えめ」です。まるで普通の人のように、地味なジャケット、落ち着いた色味、流行に流されない装いを好みます。 でもよく観察してみると… というように、“わかる人だけにわかる”本物を身に着けています。 イギリスでは「成金」はむしろ嘲笑の対象。だからこそ、派手な装飾やロゴを避け、静かに“格”を出すのが流儀です。 4. 車を見れば「古くからの金持ち」か「成金」かわかる! 意外かもしれませんが、イギリスの上流階級は新車に乗らないことが多いです。高級住宅街を歩くと、ボロく見えるレンジローバーやジャガー、古いミニクーパーを大事に乗っている人がたくさん。 これは単なる倹約ではなく、 「物を大事にする」=「家柄の良さ・育ちの良さ」 を示す文化的な価値観なのです。 むしろ最新のフェラーリやランボルギーニに乗っている人の多くは、新興成金であることが多く、長期的な安定性や教養面では見劣りする場合も。 “古くて手入れされた高級車”このバランスが、代々続くお金持ちの証拠です。 5. 食事とワインで育ちがバレる 最後にもう一つ、会話の中で「ん?」と思ったら注目してほしいのが食とワインの話題。 たとえば: など、地味だけど上質な選択肢を自然に口に出す人は、間違いなく“知っている人”。 お金持ちは“どこで何を買うか”を非常に大切にしています。スーパーで買える高級品(Waitroseでしか売ってないジャムとか)を知っていたり、自宅の紅茶がFortnumのセレクションだったりしたら…チャンスです。 番外編:どんな場所に出没する? 出会いやすいスポット3選 「でも実際どこで会えるの?」という質問もよくされます。 以下は私がこれまでの経験で感じた“高確率スポット”です: 1. ハムステッド(Hampstead)エリアのカフェ アート、文学、静かな高級住宅街。ハイソな独身紳士がよく犬の散歩をしています。 2. City内のクラシック系バー(The …
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今だからこそ、リアルな“人の声”を信じる――“ウェブ離れ”がイギリス人の心に巻き起こす変化について
こんにちは。ネットとリアル、情報と信頼、そして今、世界中に広がりつつある「ウェブ離れ」という潮流について改めて考えてみようと思います。中でも、イギリスで最近注目されるのが「グーグルレビューよりも人からのおすすめを信じる」という傾向。その背景には私たちが今まさに対面している“本格的なウェブ離れ”があるように感じています。 1. なぜ今、イギリスで“ウェブ離れ”? ◉ レビュー疲れと“信頼の再評価” かつてオンラインレビューは、新しいカフェやレストラン、ホテルなどを探すときの羅針盤でした。しかしレビュー数が膨大になり、しかも「5点満点の星」をめぐる商業的な駆け引きが激化──。レビューの信憑性が怪しくなり、多くの人が「本当に参考になるのはどういう情報だろう?」と、立ち止まり始めています。 ◉ ノスタルジーとリアル体験への回帰 SNSや検索エンジンに疲れたイギリス人たちは、ふと昔ながらの「口コミ」の力を再評価。家族や友人、同僚から直接受けたおすすめ、街角でのちょっとした立ち話…そんなリアルなやり取りこそ、“本当に使える情報”ではないか、という思いが広がっているようです。 2. その変化はなぜ、今、起きているのか? ① デジタル疲労と“情報過多”時代の反動 スマホやSNSによって常に情報が押し寄せる中、人間の情報処理能力には限界があります。GoogleやYelpなどでのレビューを読む時間も、レビューを信じる不安も、積み重なるとストレスに。結果として、よりシンプルで少数の信頼できる情報源に戻ろうとする心理が働いています。 ② レビューの操作と“信頼の崩壊” レビューがやらせだった、過剰なステルスマーケティングがあったというニュースを目にしたとき、人々の不信感は決定的になります。イギリスでも、レビューサイトにおける不正レビュー摘発や誤情報への警鐘がSNSやニュースで広まり、「もうネットの時代ではないかもしれない」という声が増えているようです。 ③ リアルなつながりと“共感”への渇望 ポストコロナの世界で、人と人が対面で繋がる機会の価値は再認識されています。レストランでの会話、ショップで店員さんとおしゃべりする時間は、単なる情報伝達ではなく「共感」を生む場です。情報だけでなく、「誰からその情報を得たか」が重要になってきているのです。 3. “人の声”が選ばれるとき、何が新しいのか? ✅ 情報の質と“文脈”が重視される 個人の経験に基づくおすすめは、単なる評価点ではなく、その背景、体験の詳細、些細なエピソードを含みます。この“文脈”こそが、ネット上の断片的レビューにはない深みを生んでいます。たとえば「このカップケーキが美味しかった理由」や「この店員さんの気遣い」に共感できる情報が力を持ち始めているのです。 ✅ 口コミは信頼の証、そして“人間味”の再発見 「YouTuber のおすすめだから試してみた」から一歩進んで、「ママ友が絶賛してたから行ってみた」というように、より身近な存在からの推薦が際立っています。そこには、ステマや広告臭とは無縁の“リアルさ”が感じられます。 4. 具体的変化:イギリス社会の“ウェブ離れ”現場 🏡 地元カフェや個人経営店の活況 イギリス各地で、個人経営のカフェやブティックが盛り返している背景には、「ネット検索よりも“地元の口コミ”を重視する」という文化があります。ローカル掲示板やフェイスブックのコミュニティグループで、「ここの紅茶が絶品」「この店の雰囲気が最高」といった投稿がリアルにシェアされ、来客を増やしています。 🧭 旅行市場での“ガイド推薦”的台頭 トリップアドバイザーやネット旅行レビューではなく、「知人の旅経験」に基づく推薦を信じて旅をする人が増加。特に田舎やニッチな旅先では、ネットでは探せない「地元住民のおすすめ」が重要になってきました。 👥 同調圧力の代わりになる「信頼圏」 ネットでは“いいね稼ぎ”や“バズ狙い”の傾向がありますが、リアルなネットワークでは、信頼関係に基づく自然な共感が重要です。そこでは「この人が良いと言うなら」と素直に試してみる心理が働き、それが再び“人の声”の強みになっています。 5. その潮流は他国にも波及するか 🌍 「デジタル過多」からのリセット志向は普遍的 イギリス先行の印象はありますが、SNS疲れ・レビュー疲れはグローバルに広がっています。日本でも近年増えている「信用できる人の声」「リアルな体験の共有」は、イギリス発の流れの一部と見ることができます。 🧳 ただし、国民性や文化によって差も 日本では「口コミ文化」はもともと根強く、レビュー離れは緩やかかもしれません。一方、アメリカや中国ではネット依存が更に進んでおり、移行の速度や規模は国ごとに異なるかもしれません。それでも、「リアル vs ネット」の軸で再検討される時代には変わりないでしょう。 6. まとめ:「ウェブ離れ」は新たな“信頼の再定義” おわりに:今、あなたは誰からの声を信じますか? このブログ記事を書きながら、私は自分自身の行動を思い返しました。SNSや検索結果を開く前に、まずは「この人に聞いてみよう」と思うようになりました。それは少しアナログな選択かもしれませんが、今だからこそ大切にしたい“本物のつながり”の再発見です。 本格的なウェブ離れというと大げさかもしれません。でも、少なくとも今私たちは「大規模な“信頼”はネット上では獲得できないかもしれない」と本能的に感じており、その直感はおそらく、多くの人に通底していることでしょう。 …
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【特集】ルーシー・レットビー事件とは何だったのか?
英国を震撼させた看護師による連続乳児殺害の全貌 ■ はじめに 2015年から2016年にかけて、イギリス中部チェスターにある病院で不審な乳児死亡が相次ぎました。その中心にいたのが、新生児集中治療室に勤務していた看護師、ルーシー・レットビー。本記事では、事件の発覚から裁判、再審請求に至るまでの経緯をわかりやすくまとめます。 ■ 第1章:事件の発端 ~不審な死の連鎖~ ルーシー・レットビーは2012年からチェスター伯爵夫人病院で勤務を開始。特に重症の新生児をケアする集中治療ユニットで働いていました。 2015年以降、彼女が勤務するユニットで乳児の死亡率が異常に高まる現象が発生。通常の2倍以上の頻度で乳児が急死したり、深刻な容態悪化を起こしたりしていました。 当初は「医療事故」や「偶発的な病状悪化」とされていましたが、ある医師が複数の事例に共通してレットビーが関与していたことに気づき、病院上層部に警告を提出。しかしこの警告は黙殺され、逆に医師が配置換えになるという逆転現象すら起きていたのです。 ■ 第2章:捜査と逮捕 ~ついに明らかになる異常性~ 2018年、警察が動き出します。レットビーの勤務記録や病院のモニターデータ、投薬履歴などを精査した結果、彼女が担当していたケースに不自然なインスリン投与や空気注入による死亡が多数確認されました。 2018年と2019年に2度逮捕され、最終的に2020年に7件の殺人罪と10件以上の殺人未遂罪で起訴されました。彼女の自宅からは、「私はやった。私は悪い人間。私は地獄に行く」と書かれたメモも発見されています。 ■ 第3章:裁判と有罪判決 ~揺れる医療と司法の境界~ 裁判は2022年から始まり、約10か月にわたる審理の末、2023年8月に評決が下されます。 陪審はルーシー・レットビーを、7人の新生児を殺害、6人に対する殺人未遂の罪で有罪と判断しました。 裁判官は「これは英国史上もっとも悪質な医療従事者による犯罪」とし、仮釈放のない終身刑、いわゆる“whole-life order”(生涯服役)を言い渡しました。これは極めて稀な量刑で、重大凶悪犯罪者のみに適用されるものです。 ■ 第4章:再審請求と医学的疑義 ~新たな波紋~ 2024年に入ってから、海外を含む14名の医療専門家チームが独自に調査を実施。彼らは「死因の中には自然死や医療処置ミスと明確に区別できないものが複数含まれている」と報告しました。 これにより、レットビーの弁護団は「重大な誤審の可能性がある」として、刑事事件再審査委員会(CCRC)に再審請求を提出しました。2025年現在、再審開始の可否についての審議が進行中です。 ■ 第5章:病院の責任 ~組織の沈黙が招いた惨劇~ 本件では、レットビー個人の責任だけでなく、病院側の対応の遅れや内部告発の無視も問題視されています。 2023年から2025年にかけて、病院の元幹部3人が逮捕され、病院組織自体が「重過失致死」で刑事責任を問われる可能性が出ています。 また、英国政府主導で「医療事故や内部告発の対応体制の見直し」「医療従事者の精神的健康へのサポート」など、制度改革の議論が始まっています。 ■ 第6章:何が問われているのか? この事件は単なる“連続殺人事件”ではなく、次のような問題を社会に突きつけています: ■ 結語:再発を防ぐために ルーシー・レットビー事件は、英国医療史において最大級の信頼失墜をもたらしました。そして今も、「彼女は本当に犯人だったのか?」「病院はなぜ止められなかったのか?」という疑問は尾を引き続けています。 裁判は一応の決着を見ましたが、真相のすべてが明らかになったとは限りません。この事件を風化させず、医療と司法、組織運営のあり方を根本から見直す契機にしていく必要があるでしょう。 ルーシー・レットビー事件と報道の“笑顔”:メディアに潜む人種バイアスを考える
■ 紅茶の国が冷たい理由 〜イギリス式“やさしさ”の終焉〜
ある朝、ロンドンのどんよりと曇った空の下、ニュースアプリをスクロールしていた私はふと手が止まった。「政府、障碍者支援を大幅削減へ」——。ああ、またか。別に驚きはしなかった。だが、驚かない自分に驚く。そう、これは感情の麻痺か、それとも時代の冷笑か。 イギリスという国は、どうも「支援」とか「共生」といった言葉が苦手なようだ。特に自分たちが困窮しはじめたとき、真っ先に切り捨てられるのは、決まって「声の小さな人々」——すなわち障碍者、高齢者、移民、シングルマザーなどである。まるで国家が非常時の沈みかけた船で、「重たい荷物を捨てろ!」と叫びながら真っ先に人間を海に突き落としているようなものだ。 そして、その手には上品な紅茶が握られている。 ■ 社会保障は「贅沢品」か? かつてイギリスは、世界に誇る福祉国家のモデルだった。第二次世界大戦後、ベヴァリッジ報告書によって打ち立てられた社会保障制度は、「ゆりかごから墓場まで」を掲げ、貧困・疾病・無知・不潔・怠惰という“五つの巨悪”に立ち向かう、壮大な社会実験だった。 だが、その理念は今や埃をかぶっている。2020年代に入り、コロナ禍、Brexit、エネルギー危機、インフレ、財政赤字、そして戦争……あらゆる“国難”が一挙に襲いかかる中、政府は社会保障費を「ぜいたく品」扱いし始めた。そして最初に削るのは、決まって「文句を言いにくい人たち」の支援だ。 障碍者は、文句を言わない。障碍者は、ストライキをしない。障碍者は、デモの前線に立ちにくい。だから、彼らの支援は「コスト削減」の最適解になってしまう。 「財政の持続可能性のために」と言えば、正義のように聞こえる。が、それは要するに、「この国にはもう“やさしさ”を支える体力がない」という白旗宣言である。 ■ 障碍者は“見えない存在”になった 近年、イギリスでは「障碍者=社会的負担」という隠れた言説がじわじわと蔓延している。もちろん表立ってそんなことを言う人はいない。だが、政策を見れば明らかだ。 たとえば、支援金の受給条件は年々厳格化され、書類の提出は煩雑を極め、医師の診断書も形式的になり、査定官はまるで“支給しないための口実”を探しているかのようだ。さらに在宅支援サービスは削られ、公共交通機関のバリアフリー化も停滞。結果、障碍者たちは社会から“姿を消していく”。 ここで皮肉なのは、こうした政策を正当化する政治家たちが、口をそろえて「インクルーシブな社会を目指す」と宣言することだ。まるで焼き討ちをしながら「街の安全を守ります」と言っているようなものではないか。 ■ イギリス的冷酷とは何か 「イギリス人は冷たい」という評判は、こと政治や制度に関しては的を射ている。もちろん個々の人間レベルでは親切な人も多い。だが、「制度」になると、イギリスは突如として“無表情な合理主義者”へと変貌する。 この冷酷さには、二つの根がある。 一つは階級社会の伝統。イギリスは未だに「自己責任」の哲学が根強い。「困っているのは努力が足りないからだ」という発想は、ビクトリア朝時代から延々と受け継がれてきた。障碍者でさえ、「社会の生産性に貢献していない」と見なされれば、支援の正当性を問われる。 もう一つは「見て見ぬふり」の文化。イギリス人は他人の苦しみに極めて寛容である。逆説的に言えば、それは「介入しない自由」でもある。困っている人を見ても、「彼には彼の事情があるのだろう」と考える。これはリベラリズムの極地か、あるいは冷淡の美化か。 ■ 「同じ赤い血が流れているのか」と問いたくなる瞬間 イギリスに暮らしていると、しばしば「本当にこの人たちと我々は同じ人類なのか?」と感じる瞬間がある。病院の待合室で4時間待たされ、看護師に詰め寄っても、「他にもっと重篤な患者がいます」と言われると、黙って従う人々。あるいは、車椅子の人が電車に乗り遅れても、誰も手を貸さず、目を合わせない群衆。そこには、共感でもなく、軽蔑でもない、空気のような無関心が漂っている。 「助けるのが当然」という文化ではなく、「助けられる方が恥ずかしい」という無言の空気。それがイギリス的な“やさしさ”の裏面であり、その果てが「支援のカット」なのだ。 ■ 「合理性」の暴走が生む非合理 皮肉な話だが、支援をカットしたことで短期的に財政は助かっても、長期的にはコストが増大する。障碍者が孤立すれば、うつ病や自殺リスクが増え、緊急医療や精神医療の負担が増す。仕事に就けなくなれば、社会的損失も拡大する。結局、国家としての生産性も損なわれる。 つまり、これは合理性の暴走が生む、壮大な非合理なのだ。 人間を「コスト」としてしか見なさない国家は、いずれその“人間力”を失う。 ■ 結局、何を守るのか? 今、イギリスは「何を守り、何を捨てるか」という岐路に立たされている。国防か、経済か、文化か、あるいは人命か。障碍者支援の削減は、単なる一政策の話ではない。それは、国家の価値観の表れであり、「誰のための国なのか」を問う、根源的な問題である。 答えは明白だ。最も弱い人を守れない国家は、いずれ誰も守れなくなる。 ■ 最後に——この国に「やさしさ」は残るのか? 繰り返すが、イギリス人個人は決して冷酷ではない。バスの中でお年寄りに席を譲る人もいるし、スーパーで盲導犬に微笑む人もいる。しかし、国家が“制度”として冷酷になるとき、そのやさしさは無力になる。 国家の成熟とは、単にGDPや防衛力の話ではない。むしろ、それは「見えない声」「届かない訴え」に耳を傾けられるかどうかにかかっている。 冷たい雨が降るロンドンの午後。傘を差した車椅子の男性が、段差の前で立ち止まっている。周囲の誰もが、スマートフォンを見つめて通り過ぎていく。 この国に、まだ「やさしさ」は残っているのだろうか。 私は足を止める。せめて、それだけでも。
【ブレグジット後の目覚め】USAIDが消える世界を想像してみたら、紅茶も苦くなった件
こんにちは、ロンドン在住のジャックです。僕は普通のイギリス人です。紅茶が好きで、BBCの天気予報に文句を言い、パブでビール片手に世界情勢を嘆くのが趣味です。でも先週、ニュースでこんな見出しを見ました。 「USAIDがなくなると2030年までに1400万人が死亡」 ……え、待って。それって…第二次世界大戦レベルじゃない? ☕️ USAIDって結局何者? 僕たち英国民にとって「アメリカの援助機関」なんて、遠い異国の福祉的なお節介くらいに思ってる人も多いはず。でも実はUSAIDって、ただの慈善事業じゃない。 なんなら、2021年までの20年間で約9,100万人を救っている(イギリスの人口の約1.3倍!)。で、その半分以上がアフリカやアジアの貧困地域。つまり、僕たちの**植民地主義の“お後始末”**も黙って肩代わりしてくれていたってこと。 🧐 トランプ政権の再登場:福祉カットのUSA版 2025年、トランプ氏が再選され、彼はUSAIDの大部分を削減。Executive Order 14169(※ほんとにある)で海外援助を90日停止。今後は国務省直轄で再編すると発表。 ここで、僕の皮肉魂がうずくわけですよ: 「世界一の経済大国が、最も貧しい国々の支援を真っ先にやめる。やっぱ資本主義って最高やな。」 でも、Lancet誌に載った研究を見て言葉を失いました。 これ、まさに「見殺しの政策」。 🇬🇧 じゃあ我々イギリスはどうなんだ? 皮肉なことに、英国も最近は国際開発予算を削ってばかり。2020年にはGNIの0.7%から0.5%に削減して物議を醸しました。我らが元首相デイヴィッド・キャメロンが「世界を安定させる最も安価な方法が援助だ」と言ったのは幻だったのか? それに比べたらUSAIDは、長年にわたって“地球の自衛隊”を務めてきたと言ってもいい。感染症、貧困、教育格差、全部まとめて対応してくれるんだから。 💡 結論:USAIDの存在意義、それは「世界の消火器」 USAIDは、火がついたら放水してくれる存在。火元がアフリカでも中東でも、我々の隣町じゃなくても、火はやがてこちらにも届くってことを知ってる。 USAIDは“ヒューマニズム”の名のもとに、実は“自国防衛”を世界規模で実現していた。それを手放すって?それは消火器を窓から投げ捨てて「火事が来ないことを祈る」レベルの話。 🎩 最後に:イギリス人として 我々英国人は、たいていのことに対して「まぁそのうち何とかなるさ」と紅茶で済ませてしまう。でもこればかりは、**“紅茶をすするだけでは救えない命”**が確かに存在する。 もしUSAIDが本当に消えたら――それは世界中の人々にとっての悲劇であると同時に、我々がどれだけ他人任せにしてきたかを思い知らされる鏡になるだろう。 僕はせめて、次にティーバッグを湯に落とすとき、少しだけでも世界の不公平を思い出していたい。それが英国紳士の「ちょっとした品格」ってやつだからね。
ロンドンの物価はバカ高い――それでも人はなぜ、都市に惹かれ続けるのか?
「ロンドンなんて、カフェラテ1杯で800円だよ」「家賃、給料の半分以上じゃん」「そんなに高いのに、なぜ人が集まり続けるの?」 都市に住んだことのある人なら、こうした声を一度は耳にしたことがあるでしょう。特にロンドンのような世界的都市は、「誰もが憧れる場所」であると同時に、「誰もが財布を気にする場所」でもあります。 物価がバカ高い都市に、なぜ人は自ら進んで集まっていくのか?それは、単なる雇用や利便性といった「現実的な理由」だけでは語れません。都市という空間には、人を惹きつけてやまない文化的・社会的・心理的な磁力が備わっています。 この記事では、ロンドンのような高コストな都市に人々が集まり続ける理由を、「経済」「歴史」「心理」「文化」「都市構造」「人間の進化的本能」など、多角的な視点から深掘りします。 1. 都市の本質とは「高コストで高密度の価値空間」 「不便なはずなのに便利」――都市という矛盾の魅力 都市とは、人が集まり、住み、働き、創造し、衝突し、調和する場所です。そこには騒音もあれば、渋滞もあり、家賃は高く、空気は悪い。一見、快適とは程遠いはずなのに、なぜか都市は「便利」だと感じる。 それは、都市が人間の社会的欲求を強烈に満たしてくれるからです。 人は動物であり、社会的存在でもあります。都市は、その両方のニーズを一挙に叶える、究極の欲望装置なのです。 2. 経済学的視点:「物価が高い」ということは、それだけ“価値”があるということ 都市経済学では、「物価が高い都市」とは、需要が供給を上回っている都市です。 特にロンドンのようなグローバル都市には、次のような特徴があります。 つまり、ロンドンという都市そのものが「価値を生み出す機械」であり、それを活用しようとする人・企業が集まるため、地価・家賃・サービス価格が高騰するのです。 重要なのは「名目の物価」ではなく「実質的なリターン」 ロンドンでのランチが3,000円しても、それに見合った収入や経験、機会が得られれば、経済合理性は成立します。実際、多くの高学歴層やクリエイティブ産業従事者は、「ロンドンにいれば5年でキャリアが3倍進む」と考えています。 3. 歴史的視点:都市への集中は今に始まったことではない 人類史を見ても、「都市への集中」は普遍的な現象です。紀元前3,000年のメソポタミア文明から、18世紀の産業革命、そして現在のテックメトロポリスに至るまで、人は常に“中心地”を目指してきました。 ロンドンの歴史的背景 ロンドンは元々、ローマ時代の交易拠点から始まりました。その後、中世には商業都市として栄え、19世紀には産業革命の中心地となり、帝国の首都として世界を牽引。現代では、金融・教育・文化のグローバルハブとなっています。 こうした長い歴史の中で、「ロンドンにいれば世界の最先端にいられる」という意識が人々に刷り込まれてきたのです。 4. 心理学的視点:人間は「他者との接触」に飢えている 都市は、人と人が物理的に、かつ心理的に「ぶつかる」場所です。この「ぶつかり」が、新しいアイデア、刺激、感情を生み出します。 都市における「偶然性」が人間を活性化させる 田舎では毎日同じ景色、同じ人間関係が続きがちですが、都市では違います。 このような情報と刺激のシャワーが、脳を活性化させ、人を「創造的」にし、「成長した気」にさせるのです。 5. 社会構造の視点:「都市にいること」が社会的証明になる 現代社会では、「どこに住んでいるか」がその人のステータスを左右します。SNSやLinkedInで、「ロンドン在住」と書かれているだけで、相手は無意識にその人を“上”だと感じてしまうことがあります。 こうした「都市の住所を名刺代わりにする現象」が、若者を中心に加速しているのです。 6. ネットワーク効果:「集まっているから、さらに集まる」 経済学の用語で「ネットワーク外部性(Network Externalities)」という概念があります。つまり、「人がたくさんいること」自体が価値になる、ということです。 都市は「インフラとしての人間関係」を提供する この「集まり続けることによって価値が増す」仕組みこそ、都市の本質なのです。 7. 「希望と絶望が同居する」ことが、都市の中毒性を生む 都市は、成功と失敗が紙一重の世界です。隣の部屋に住むのは有名企業のエリートかもしれないし、明日には自分も家賃が払えず路上生活かもしれない。 このスリルと緊張感こそが、人間の本能を呼び覚ますのです。 それはまるで、「永遠に終わらないゲーム」の中に生きているような感覚。都市は中毒性を持っています。 8. それでも都市に生きる価値とは? では、都市に生きる「真の価値」とは何でしょうか?それは単に高給やステータスを得ることではありません。 都市は、自分の人生の可能性を最大限に試せる場所なのです。 そうした人間の根源的な欲求に、都市は最も近い場所にあります。 結論:物価の高さは、都市という“生き方”の代償 ロンドンの家賃が高いのは、それだけの「人生を変える可能性」がそこにあるからです。人は、ただ合理的に生きたいわけではない。「意味ある場所で、意味ある時間を過ごしたい」のです。 それが、どんなにお金がかかっても、どれだけ疲れても、人が都市に惹かれてやまない理由です。 あなたにとって、「都市に生きる」とは何を意味しますか? それは単なる選択肢ではなく、生き方そのものかもしれません。都市とは、物価ではなく、「物語」の密度で選ぶ場所なのです。
権力を握るのは女性?男性?——イギリスのカップル事情を考える
「男女平等の先進国」として語られることの多いイギリス。しかし、実際のカップル間において“決定権”や“主導権”を握っているのは一体どちらなのだろうか。表面的な男女平等のイメージと、現実のカップル間の力関係にはズレがあるのではないか——そんな疑問から、この記事ではイギリスにおけるカップルの権力構造について掘り下げてみたい。 ■ イギリスの「男女平等」は本物か? イギリスは、国際的な男女平等指数(Global Gender Gap Index)において常に上位に位置している国だ。女性の政治参加も高く、国会議員の約3分の1は女性。さらに、女性の高等教育進学率は男性を上回る傾向にある。企業においても、近年は女性CEOの存在感が増しており、男女の賃金格差を減らす政策も推進されている。 こうした表面的なデータを見る限り、イギリスは男女平等が「浸透」している国といって差し支えない。しかし、「社会全体」と「個々のカップル」の中での平等は、必ずしも一致するわけではない。特に家庭内や恋愛関係における力関係は、経済力・文化・価値観といった複雑な要素が絡み合って形成される。 ■ 「女性が主導権を握るカップル」は本当に多いのか? SNSやライフスタイル誌、また一部のコメディ番組などでは「妻(または恋人)が家庭内のボス」という描写が多く見られる。これはイギリスに限らず、先進国全体に共通する“お約束”のようなものでもある。家庭での買い物、子どもの進路、住居の決定など、実務的な部分は女性が主導する傾向にあるのは事実だ。 しかし、果たして「主導権=決定権」なのだろうか? たとえば、見た目にはパートナーの女性が「支配的」に振る舞っていても、実際には重要な経済的選択やライフスタイルの根幹にかかわる判断は、男性が下しているケースもある。これは、いわば「見た目の主導権」と「実際の決定権」のズレといえる。 ■ 経済力と決定権の関係 家計を支える者が力を持つ——これは、どの国でも共通する構図だ。イギリスにおいても、依然として高収入層に占める男性の割合は女性を上回っており、特に40代以上の年齢層ではその傾向が顕著である。高給取りのポジションにいる男性は、仕事の都合で住む場所やライフスタイルを決めることが多く、それに伴って家庭内での「決定権」も握っていることが多い。 また、家の購入・ローン・子どもの進学といった長期的な経済決定では、収入が多い側の意見が尊重される傾向にある。つまり、形式的には「対等」であっても、経済的な依存関係が見えない力の差を生むのだ。 ▼ 統計で見る現状 イギリス国家統計局(ONS)のデータによると、カップルのうち約60%が「収入面で男性が優位」とされている。加えて、家庭内の大きな意思決定(マイホーム購入や保険、車の選定など)においては、男性の意見が最終的に採用されるケースが全体の約65%にも及ぶという調査もある。 つまり、「女性が声を出しているように見える」カップルでも、経済的な影響力を持つ男性が影のリーダーとなっている可能性は高い。 ■ 文化とジェンダー:イギリス特有の事情 イギリスは一見して“個人主義”の国であり、「対等な関係」が重視される文化が根付いている。そのため、夫婦や恋人関係でも「すべてを対話で決める」という姿勢が一般的だ。しかし実際は、その中に“暗黙のヒエラルキー”が存在している。 たとえば、アッパーミドル層以上の家庭では、「パートナーのキャリアを優先する」という理由で女性がキャリアを一時中断するケースも多い。これは合意による選択であると同時に、社会構造によってそうせざるを得ない“空気”が漂っているともいえる。 また、保守的な価値観が残る地方都市では、依然として「男性は仕事、女性は家庭」という分業意識が強い傾向にある。こうした地域では、「女性が決定権を握る」という発想自体が少数派である。 ■ 典型的なカップル像:4つのケーススタディ ケース1:ロンドン在住の共働き夫婦(30代) 妻は医師、夫はIT企業勤務。年収はほぼ同じ。決定事項は話し合いのうえで決めているが、住宅ローン契約などの金融手続きは夫が担当。「実務は妻、金銭判断は夫」という分業型。 → 一見平等だが、経済的な意思決定では男性に一日の長がある。 ケース2:郊外在住、専業主婦家庭(40代) 夫は会社経営、妻は子育てに専念。家庭内のすべてを妻が取り仕切るが、最終的な大きな決断は夫が行う。車の購入、学校選びも夫の意向が優先。 → 家庭内での“日常的な決定”は妻、“戦略的な決定”は夫。 ケース3:同性カップル(女性×女性) 収入格差があり、高収入のパートナーが家賃・投資を負担。話し合いのうえで生活を組み立てているが、金銭にまつわる大きな決定は一方に偏りがち。 → 男女関係に限らず、経済力が決定権に影響を与える例。 ケース4:移民カップル(南アジア出身) 夫がフルタイム、妻がパートタイム勤務。伝統的な家庭観が強く、妻が従属的な立場にあると感じている。夫が主に決定権を握る構造。 → 文化的背景が力関係に大きく影響。 ■ 「見える平等」と「見えない不平等」 男女が“平等”であるという社会通念があったとしても、実際の関係性には「見えない不平等」が存在する。それは必ずしも悪意や差別から生まれるものではなく、経済的背景や文化的慣習、あるいはパートナー間の“暗黙の了解”として自然に形成されていくものだ。 表面的には女性が“仕切っている”ように見えるカップルでも、経済的なリソースを握っている男性が、より根本的な意思決定をしていることは少なくない。そしてそれはイギリスのような男女平等が進んだ国においても例外ではない。 ■ まとめ:カップルの「主導権」とは何か? カップルの力関係は単純な「女性が上か、男性が上か」では測れない。見た目の主導権と実際の決定権が一致しないことも多く、さらに経済力が決定権に大きな影響を与えている現実がある。 男女平等の価値観が広がっていても、その土台にはまだまだ経済的ジェンダーギャップが残っており、これを解消するには「平等な収入構造」と「育児・家事の分担」など、社会全体での再設計が必要だ。 つまり、真の平等とは、対等な会話の裏側にある“見えない力関係”にも目を向けることから始まる。イギリスのカップルたちは、そのジレンマの中で日々バランスを模索している。
イギリスに言論の自由はあるのか?
グラストンベリーフェスティバルでの「IDFに死を」ラップ発言から見える、自由とダブルスタンダードの境界線 【はじめに】自由なはずの国で、自由が試されるとき イギリスは長らく「言論の自由」を掲げる西側自由主義国家の一つとして認識されてきた。だが、2025年6月末、サマセットで開催された世界最大級の音楽フェスティバル「グラストンベリーフェスティバル」での出来事は、その前提に大きな疑問符を投げかけた。 あるミュージシャンが、イスラエル国防軍(IDF)によるガザやイランへの軍事行動に抗議し、「Death to the IDF(イスラエル国防軍に死を)」という歌詞を叫んだことで、一部のメディアや政治家が激しい反応を示し、警察までが調査を始めたのである。 果たしてこれは、本当に“ヘイトスピーチ”だったのか。それとも、都合の悪いメッセージを封じようとする「言論統制」だったのか。しかも、これがもしイランやガザへの攻撃を賛美する発言だった場合、果たして同じような大騒ぎになっていただろうか?本記事では、その疑問を出発点に、英国の言論の自由の現状とメディアのダブルスタンダードについて掘り下げていく。 【事件の概要】ステージ上での発言とその余波 問題の発言を行ったのは、ラップ・パンク・デュオとして知られるBob Vylan。彼らはライブ中、「IDFに死を」というフレーズを観客と一緒に叫び、イスラエルの軍事行動に対する激しい非難を音楽という形で表現した。 このパフォーマンスはBBCによって生中継されており、即座に視聴者から苦情が殺到。BBCは後に「このような発言を放送したのは不適切だった」として謝罪した。イギリスの警察も、ヘイトスピーチや暴力扇動に該当するかどうかを調査中だという。 一方、Bob Vylan側は「我々は政治的沈黙を拒否する」「ガザでの虐殺に沈黙する方が罪だ」と主張し、表現の自由を守るために声を上げ続ける姿勢を崩していない。 【比較検証】もしこれがイランやガザへの批判だったら? ここで浮かぶのが「ダブルスタンダード」という言葉だ。もし彼らが「Death to Hamas」あるいは「Death to the Iranian Revolutionary Guard」と叫んでいたら、これほどの批判に晒されたのだろうか?その問いに答えるには、英国社会とメディアの反応の“基準”を検証する必要がある。 事実、過去にも他国の軍事組織や権威主義体制を批判するアーティストは数多くいた。例えばロシアのウクライナ侵攻を非難する歌詞、イランの女性弾圧に反対するポエトリーラップなどは、多くの支持を受けることがあっても、今回のような“捜査対象”になることはなかった。 つまり、「ある特定の国」──この場合はイスラエル──に対して否定的なメッセージを発した瞬間、その内容の是非ではなく“誰に向けて言ったか”によって炎上や弾圧が始まるという構図が、浮き彫りになっているのだ。 【英国法と表現の自由】どこまでが「自由」で、どこからが「犯罪」か? 英国における言論の自由は、「人権法1998」により保障されている。が、同時に公共の秩序や他者の権利を侵害する発言は制限されうる。 特に以下のような要素が含まれると、表現の自由の枠を超えて“犯罪”とされる可能性がある。 今回の「IDFに死を」は、軍隊という“組織”に対する発言ではあるが、「死を」という表現が暴力の正当化・煽動と捉えられかねないという指摘がある。 とはいえ、「殺せ」「死ね」という表現がメタファーや抗議手段として使われるのは音楽界では珍しくない。実際、過去の反戦・反体制ラップやパンクロックには、さらに過激な表現も存在していた。 この事件のように、“内容”ではなく“対象”が問題視される状況は、言論の自由の精神から逸脱しているのではないか。 【メディアの姿勢】報道の中立性と政治的忖度 英国の主要メディアの反応もまた、興味深い対照を見せている。 これは、イスラエルという国家の特殊な立場──歴史的迫害、国際社会との関係、宗教的背景──が影響していると考えられる。メディアもまた、「誤解を招くこと」を恐れ、過剰に自粛あるいは攻撃的に反応してしまうという構図だ。 また、BBCが当初ライブを中断せず放送し、その後謝罪したことも、「責任の所在」を曖昧にし、自己検閲が強まる要因となっている。 【政治家たちの反応】“正しさ”と“人気取り”の境界 英国の複数の政治家もこの件に言及し、「断固たる対応が必要」「公共の場での憎悪発言は容認できない」と非難の声を上げている。 だがその一方で、イランの反体制派に寄り添う発言や、他国への制裁支持には躊躇なく賛同するケースもある。この“使い分け”は、言論の自由の理念とは無関係な、“政治的都合”によるものだという疑念を拭いきれない。 つまり、「誰を批判したか」によって、その人の言論の価値が決まってしまうのであれば、それはもはや自由ではなく、「制限付きの許可制」だ。 【アーティストの覚悟】音楽に何を託すのか Bob Vylanの発言が適切だったかどうかは、意見が分かれるだろう。しかし、彼らが伝えたかったメッセージ──「沈黙は共犯である」という信念──は、多くの共感を呼んでいる。 音楽は、社会に対する異議申し立ての手段であり、時には現状を揺さぶる挑発でもある。それが不快であっても、耳を塞ぐのではなく、その背景にある痛みや怒りに耳を傾けることが必要だ。 【結論】本当に守るべきものは何か 今回の事件は、イギリスにおける言論の自由の限界と、メディア・政治が抱える矛盾を炙り出した。自由を掲げる国で、特定の意見や批判がタブーとされるなら、それは自由ではない。 表現の自由は、耳に痛い言葉を許容することで初めて意味を持つ。攻撃的な言葉を全て容認せよというわけではない。しかし、批判と扇動の線引きが「誰を批判したか」によって変わるようでは、社会全体の健全性が問われる。 イギリスが本当に自由な国であり続けるためには、メディア・政治・市民一人ひとりが、自由の本質と、その脆さについて真剣に考える必要があるだろう。
「未来は予言されている」:アジア人の信じる大予言とイギリス人の懐疑主義のはざまで
はじめに:信じることと疑うことの間に 世界のどこかで地震が起きる。大雨が続く。政権が交代する。これらの出来事に「意味」を見出し、やがてやってくる未来を予兆と結びつける文化がある。とくにアジア圏では、「予言」や「運命」といった概念に強い関心が寄せられ、その信仰は歴史、宗教、民族の背景に深く根ざしている。一方で、論理的思考と経験主義を重んじるイギリス人にとって、「大予言」のような超自然的概念は、懐疑の対象でしかない。 このコラムでは、「アジア人が強く信じる大予言」がなぜイギリス人には理解しにくいのかを、両者の文化的背景や国民性を比較しながら探っていく。 1. アジア的「予言」文化の源流 アジアの多くの国々では、未来を予測する「予言」は単なる娯楽ではなく、人生の重要な判断基準とされていることが少なくない。 中国では、古代から「易経」に代表される占術文化が発展してきた。王朝の興亡は天命によると信じられ、「風水」や「八字」などの技法で国家の未来すら占われていた。現代においても、開運グッズや占い師が社会に溶け込み、ビジネスや結婚などの人生の節目で助言を求める人は後を絶たない。 日本においても、「陰陽道」や「厄年」、「暦注」などが長く信じられ、特に東日本大震災以降、「予言者」がメディアに登場する機会が増えた。韓国でも「占いカフェ」やスピリチュアルなYouTubeチャンネルが若者に支持されている。インドや東南アジア諸国においては、宗教と予言は不可分であり、神託を告げる聖者や祭司の存在は今も地域社会で重んじられている。 アジア人が予言を信じる理由 2. イギリス人の懐疑主義と経験主義 一方で、イギリス人の国民性を語る際、よく言われるのは「皮肉屋」であり「懐疑主義者」という点だ。彼らは物事を一歩引いて見つめる習慣を持ち、感情的な判断よりも合理性や実証主義を優先する。 イギリス的思考の背景 3. 信じることで安心するアジア人、疑うことで秩序を守るイギリス人 「2028年に世界が変わる」「救世主が再臨する」「大災害が予告されている」──こうした予言に対して、アジア人の多くは恐れながらも関心を抱き、未来に備えようとする姿勢を見せる。一方、イギリス人の多くは「それが事実である証拠は?」と問い、あくまで冷静な距離を保とうとする。 この違いは、文化的な背景に加えて、「心の防衛機制」の違いにも起因していると考えられる。アジアでは、予言を信じることで「不安定な世界」に意味づけを与え、個人が安心感を得ようとする。一方、イギリスでは、世界は混沌としているという前提を受け入れ、その中で「理性によって秩序を保つ」ことが重要視される。 4. メディアとSNSが加速する“信仰”のギャップ 現代においては、TikTokやYouTube、Redditのようなプラットフォームで「大予言」が瞬く間に拡散される。アジア圏では、とくに若者の間でスピリチュアル系インフルエンサーが強い影響力を持つ。一方、イギリスでは、そうした現象は「バズった奇妙な話題」として一笑に付されるか、陰謀論として危険視される傾向が強い。 この温度差は、単なる趣味嗜好の違いではなく、「未来」や「見えないもの」に対する構え方そのものが異なっていることを示している。 5. 果たして予言は“真理”か“逃避”か アジア人が信じる大予言は、未来を知るための羅針盤であると同時に、混乱する社会の中で心の支えともなっている。だが、イギリス的な視点から見れば、それは「事実逃避」や「集団心理の産物」に過ぎないと映ることもある。 この断絶をどう乗り越えるかは容易ではないが、お互いの文化的背景を理解することは、グローバルなコミュニケーションの第一歩となる。 結び:理解されなくても信じたい人々 「なぜ信じるのか」と問うイギリス人と、「信じることに意味がある」と答えるアジア人。その間に横たわるのは、信仰と懐疑、安心と合理、そして過去と未来の捉え方の違いである。 未来は予言できるのか──その問いに答えはない。だが、予言を信じる文化が存在すること、それによって人々が心の均衡を保とうとしていること、それは決して否定されるべきではない。そして、信じない文化が「今ここ」のリアリティを大切にしていることも、また尊重されるべきである。 どちらが正しいわけではない。だが、この違いを知ることこそが、異なる文化の共存のヒントなのかもしれない。
アメリカのイラン攻撃と「弱国」認識:イギリス視点から見る現実と誤算
2025年初頭、アメリカによる中東における空爆が国際社会に衝撃を与えた。ターゲットは再びイラン。この出来事を受け、多くの国々が懸念を表明する中、イギリスの対応と分析はどこか冷静で計算高いものに見える。なぜイギリスはイランに対して抑制よりも静観を選んだのか。そこには「イラン=弱国」という評価が大きく影響している。 本稿では、イギリスがいかにしてイランを“強国”ではなく“弱国”と見なしているか、その根拠と背景、そしてアメリカの攻撃を容認あるいは是認する論理構造を掘り下げていく。さらに、こうした「過小評価」が今後もたらすかもしれない地政学的リスクについても触れていきたい。 「イラン=弱国」という前提 経済的疲弊と制裁の効果 イラン経済は長らく制裁とインフレに苦しんできた。特に2018年にアメリカが核合意(JCPOA)から一方的に離脱し、再び経済制裁を課して以降、イランのGDPは急落。通貨リアルの価値も暴落し、国民生活は一層困窮している。 イギリスのシンクタンクや外交関係者の間では、このような経済状況をもって「イランはもはや戦争を起こせる国家ではない」という見方が支配的だ。軍事費の対GDP比は高いものの、実際には先端兵器の更新もままならず、経済的持続可能性を著しく欠いている。 軍事力の“見かけ倒し” イランは中東において自国の影響力を誇示してきたが、その多くは「非対称戦力」に依存している。精密誘導兵器や長距離戦略兵器を本格的に運用するには技術力と資金が必要だが、イランはそのいずれにも欠けている。 ドローンやミサイルは一定の脅威にはなり得るものの、それは地域限定の話であり、アメリカやNATO諸国との全面戦争を想定した場合には「脅威にならない」という評価が多い。イギリス国防省も、過去数回の衝突でイランの軍事的反応が極めて限定的だったことを根拠に、イランの軍事的実行力を高く見積もっていない。 アメリカの戦略とイギリスの黙認 「やられても、やり返されない」という前提 今回のアメリカの攻撃も、根底には「イランは反撃できない」という前提がある。経済的制裁、軍事的限界、そして国内の不安定さがその判断を後押しした。そして実際、イラン政府の初期反応も慎重そのものだった。声明では強い言葉が並ぶものの、具体的な軍事行動には至っていない。 イギリス政府はこの動きを事前に把握していた可能性が高い。諜報機関を通じた情報共有のもと、アメリカの動きを黙認した。公式な声明でも、「事態のエスカレーションは望まない」と述べるにとどまり、アメリカ批判を控えている。 同盟国の論理と“選別的支援” イギリスはアメリカとの「特別な関係」を背景に、対イラン政策において常に慎重な立場を取ってきた。だが慎重とはいえ、イランへの明確な擁護や中立的な姿勢を取ったことは一度もない。むしろ「弱い相手には強い圧力を加えても反発は限定的で済む」という、冷徹な現実主義が外交の根底にある。 アメリカがイランを攻撃しても、「イランはそれに見合う報復能力も、国際的な支持も持ち合わせていない」という読みが、イギリスを含む西側諸国の共通認識になっている節がある。 イランの反撃能力とその限界 宗教的威圧 vs 現実的抑制 イランはしばしば宗教的理念や殉教思想を前面に出すことで、強硬姿勢を演出してきた。だがその一方で、過去の実例を見れば報復は極めて限定的で、慎重な政治判断が常に優先されてきた。これは軍部と宗教指導部の間に潜む対立や、国民の戦争疲れによる世論の抑制も影響している。 イギリスにとっては、これは大きな安心材料だ。すなわち、イランは見かけほど危険ではなく、突発的な全面戦争に発展するリスクは低い。こうした分析は、外交政策の舵取りにおいて極めて重要な役割を果たしている。 見誤る可能性と将来の火種 弱者の反撃という誤算 しかしながら、「弱国=安全」という発想は時に危険でもある。歴史を紐解けば、絶望的な立場に追い込まれた国家が、逆に予測不能な行動に出ることも少なくなかった。日本の真珠湾攻撃や、ロシアによるクリミア併合など、「やるはずがない」が「やった」例は枚挙にいとまがない。 もしイランが「ここまでやられても西側諸国は介入しない」と判断し、中東地域での代理戦争を激化させれば、それは結果的にイギリスにも火の粉が及ぶ展開となりかねない。 民意と反米感情の連鎖 さらに見逃せないのは、イランの国民レベルでの「対西側憎悪」の蓄積だ。経済制裁による生活苦、報復できない屈辱、そして孤立感。こうした感情は時に急進的な行動に火をつける。もし革命的な変化や体制変革が国内で起きた場合、その怒りの矛先は確実にアメリカとその同盟国にも向けられるだろう。 結語:「弱国」だからこそ、慎重な対応を イギリスの外交戦略は常に冷静で、現実主義的だ。しかし、現実主義が過信や油断に変わったとき、国際政治は思わぬ方向へ動く。イランを「戦争を起こせない弱国」とみなす視点は、一見合理的だが、同時に危うさも孕んでいる。 アメリカの攻撃が今後さらにエスカレートした場合、イランの「弱者の反撃」は想定外の形で現れる可能性もある。イギリスが本当に求めるべきは、一時的な勝利ではなく、長期的な安定だ。 “弱いから叩いてもいい”という理屈は、国際秩序の正当性を自ら傷つけることにもなりかねない。だからこそ、今こそ「弱国」への理解と対話が必要なのではないだろうか。